むらさきのスカートの女…今村夏子著 カルチャー
あなたは、今、新聞を広げている。窓の外を見て、今日も暑そうだなあ、なんて思っているかもしれない。朝食のパンを買いに外に出て、管理人さんに笑顔で声をかけられ、こんにちは、と返す。のどかな朝。しかし、本当にそうだろうか? あなたは、あなたという「語り手」を、本当に信じていいのだろうか? 『むらさきのスカートの女』は不思議な本だ。この本の「語り手」は、近所に出没する「むらさきのスカートの女」と友達になりたい、と思っている。「語り手」は「むらさきのスカートの女」をうまく自分の職場へと誘導し、一緒に働き始める。「むらさきのスカートの女」がトレーニングを頑張ったり、備品のチョコレートを近所の子供たちにあげたり、職場の人と会話をする姿を「語り手」は見つめ続ける……自分についてはなにも説明せず、「むらさきのスカートの女」だけを、一途(いちず)に、異常なほど丹念に。 「語り手」は自分のことをほとんど語らない。だから読者は語り手が何気なく起こす異常な行動や、たまに投げかけられた言葉から、彼女を知っていくしかない。この本を読んでいると、不安定で、奇妙な世界に入り込んだような気持ちになる。物語の終盤、「語り手」が「むらさきのスカートの女」の前で饒舌(じょうぜつ)にしゃべり始めたとき、初めて、鮮明に彼女の姿が浮かび上がる。しかし、彼女の異常さを語る人はどこにもいない。「語り手」は彼女自身なのだから。 だが私たちは、この本と同じ構造の世界に生きているのではないだろうか。本を閉じた外に広がっている世界は、あなたという「語り手」の眼差(まなざ)しを通した世界だ。私たちは、誰一人として、「自分自身」という不安定な語り手から逃れることはできない。人間がすべて本になったとしたら、本棚にはこんな本が並ぶのではないか。穏やかな朝の外からこちらを見てくる「眼差し」に、ふと振り向かずにはいられない。そういう特別な力を持った物語なのだ。.
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