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【本郷和人の日本史ナナメ読み】智臣・土井利勝㊤異例の厚遇、落胤説は「アリ」か

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【本郷和人の日本史ナナメ読み】智臣・土井利勝㊤異例の厚遇、落胤説は「アリ」か
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土井利勝は元亀4(1573)年、徳川家家臣・土井利昌の子として浜松に生まれました。この土井という家は、幕府に提出した資料によれば、清和源氏土岐氏の庶流である…

土井利勝は元亀4(1573)年、徳川家家臣・土井利昌の子として浜松に生まれました。この土井という家は、幕府に提出した資料によれば、清和源氏土岐氏の庶流であるとされます(『寛政重修(ちょうしゅう)諸家譜』)が、三河譜代の家ではないようです。利勝の父である利昌も、どんな武功を挙げた、どれほどのサラリーを得た、などの詳細が分からぬ人です。 利勝の名は徳川秀忠とともに資料に現れます。すなわち天正7(1579)年に秀忠が生まれると、安藤重信・青山忠成とともに秀忠の傅役(もりやく)を命じられたのです。役料は200俵でした。傅役といっても7歳なので、実態は「ご学友」でしょうか。家臣の子供は多くいたでしょうに、なぜ利勝が? 家康は幼い彼を鷹(たか)狩りに同行させていて、とくに気に入っていたようです。 ちなみに同じく傅役の大任に就いた重信は23歳、後に上野(こうずけ)・高崎5万6千石の大名になります。安藤家は三河以来の譜代で、幕末の坂下門外の変で有名な安藤信正など、幕府要職に就く者が多く出ています。忠成は29歳。後に老中を務め、常陸・江戸崎(いまの茨城県稲敷市あたり)で2万5千石。青山家も三河譜代で、子孫はたびたび幕府要職に就いています。 家康が関東に転封すると、相模国に領地1千石を得ました。関ケ原の戦いでは、利勝は秀忠に従い別動隊となりましたので、これといった武功は挙げていません。500石だけサラリーを増やしてもらっていますが、日ごろの労に報いる感じでしょうか。 秀忠の側近として働き、慶長7(1602)年末、下総国小見川(いまの千葉県香取市)に1万石を与えられました。同10年、秀忠が上洛して後陽成天皇より征夷大将軍に任ぜられると、随行していた利勝も従五位下・大炊頭(おおいのかみ)となりました。これに先立つ同9年、李氏朝鮮の使節が来日したときに事務を取り仕切ったり、同13年、浄土宗と日蓮宗の論争(慶長宗論)を処理したりと、実務面で優れた手腕を発揮しています。 同15年、下総・佐倉3万2千石に移封。同年、家康の命により秀忠付の老中に任ぜられました。同17年には4万5千石に加増されます。同20年、大坂の陣が起こると利勝は秀忠の下で従軍。さしたる武功は報告されていませんが、所領は6万2500石に加増されます。 この年、青山忠俊(忠成の嫡子)、酒井忠世とともに徳川家光の傅役を命じられます。元和2(1616)年、秀忠を補佐して一国一城令を出し、13条からなる武家諸法度を制定しました。4月に家康が死去すると、葬儀の事務を一手に引き受けました。寛永2(1625)年に14万2千石に加増され、同10年には下総・古河16万2千石に加増移封されます。これは譜代大名屈指の石高になります。同12年、武家諸法度に参勤交代義務化などの条文を加え19条に増やして大改訂し、幕府支配の基礎を固めました。翌13年には、輸入の明銭に依存していた国内通貨を刷新。幕府で寛永通宝を鋳造し、新通貨制度を確立しました。幕府政治家として堂々たる人生ですが、あれ?と首をかしげざるを得ないところがあります。いかに熟練の政治家とはいえ、厚遇されすぎでは?というところです。これまで取り上げた人物で分かるように、江戸幕府は譜代に対して安易にサラリーをはずむ、ということをしません。10万石以上の禄(ろく)をとる譜代大名は、①自身が戦場で顕著な働きをした人、もしくは②戦場で大功を立てて討ち死にした人の近親者、どちらかです。軍事が重要で、政治ではない。例外は本多正純(宇都宮15万5千石)くらいでしょうか。ただし彼は元和8年に改易(かいえき)され、終わりを全うしていません。 さて、では利勝の栄達をどう理解するか。一つは時代が変わったのだ、とする正攻法。いくさがない世の中になったので、行政力が高く評価されるようになった。利勝の出世はその表れだとする。同僚の酒井忠世も政治力を評価されて上野・前橋で12万石ですので、この見方が有力なのは間違いない。 でも、利勝の場合は、もう一つ、違う解釈があります。それがよく知られる「利勝は家康の落胤(らくいん)だった」説です。彼の血統については、江戸幕府の公式な記録である『徳川実紀』にも書かれています。「火のないところに煙は立たぬ」ともいいますし、さてどうなのでしょう? ぼくは今のところ、これを「アホらしい」と一笑に付すだけのロジックを持ち合わせていません。かつて古河は下総国に属していた。下総はいまはおおよそ千葉県になるが、古河は茨城県古河市である。よみは「ふるかわ」ではなく「こが」。渡良瀬川の下流に接していたが、この川は直(じか)に東京湾に注ぐ河川であったので、江戸と北関東を結ぶ町として栄えた。もう少し歴史を遡(さかのぼ)ってみると、湿地に守られる天然の要害であったため、室町時代後期には鎌倉公方がこの地に移り、「古河公方」と呼ばれた。そうした経緯から、古河は北関東有数の町だったのである。.

土井利勝は元亀4(1573)年、徳川家家臣・土井利昌の子として浜松に生まれました。この土井という家は、幕府に提出した資料によれば、清和源氏土岐氏の庶流であるとされます(『寛政重修(ちょうしゅう)諸家譜』)が、三河譜代の家ではないようです。利勝の父である利昌も、どんな武功を挙げた、どれほどのサラリーを得た、などの詳細が分からぬ人です。 利勝の名は徳川秀忠とともに資料に現れます。すなわち天正7(1579)年に秀忠が生まれると、安藤重信・青山忠成とともに秀忠の傅役(もりやく)を命じられたのです。役料は200俵でした。傅役といっても7歳なので、実態は「ご学友」でしょうか。家臣の子供は多くいたでしょうに、なぜ利勝が? 家康は幼い彼を鷹(たか)狩りに同行させていて、とくに気に入っていたようです。 ちなみに同じく傅役の大任に就いた重信は23歳、後に上野(こうずけ)・高崎5万6千石の大名になります。安藤家は三河以来の譜代で、幕末の坂下門外の変で有名な安藤信正など、幕府要職に就く者が多く出ています。忠成は29歳。後に老中を務め、常陸・江戸崎(いまの茨城県稲敷市あたり)で2万5千石。青山家も三河譜代で、子孫はたびたび幕府要職に就いています。 家康が関東に転封すると、相模国に領地1千石を得ました。関ケ原の戦いでは、利勝は秀忠に従い別動隊となりましたので、これといった武功は挙げていません。500石だけサラリーを増やしてもらっていますが、日ごろの労に報いる感じでしょうか。 秀忠の側近として働き、慶長7(1602)年末、下総国小見川(いまの千葉県香取市)に1万石を与えられました。同10年、秀忠が上洛して後陽成天皇より征夷大将軍に任ぜられると、随行していた利勝も従五位下・大炊頭(おおいのかみ)となりました。これに先立つ同9年、李氏朝鮮の使節が来日したときに事務を取り仕切ったり、同13年、浄土宗と日蓮宗の論争(慶長宗論)を処理したりと、実務面で優れた手腕を発揮しています。 同15年、下総・佐倉3万2千石に移封。同年、家康の命により秀忠付の老中に任ぜられました。同17年には4万5千石に加増されます。同20年、大坂の陣が起こると利勝は秀忠の下で従軍。さしたる武功は報告されていませんが、所領は6万2500石に加増されます。 この年、青山忠俊(忠成の嫡子)、酒井忠世とともに徳川家光の傅役を命じられます。元和2(1616)年、秀忠を補佐して一国一城令を出し、13条からなる武家諸法度を制定しました。4月に家康が死去すると、葬儀の事務を一手に引き受けました。寛永2(1625)年に14万2千石に加増され、同10年には下総・古河16万2千石に加増移封されます。これは譜代大名屈指の石高になります。同12年、武家諸法度に参勤交代義務化などの条文を加え19条に増やして大改訂し、幕府支配の基礎を固めました。翌13年には、輸入の明銭に依存していた国内通貨を刷新。幕府で寛永通宝を鋳造し、新通貨制度を確立しました。幕府政治家として堂々たる人生ですが、あれ?と首をかしげざるを得ないところがあります。いかに熟練の政治家とはいえ、厚遇されすぎでは?というところです。これまで取り上げた人物で分かるように、江戸幕府は譜代に対して安易にサラリーをはずむ、ということをしません。10万石以上の禄(ろく)をとる譜代大名は、①自身が戦場で顕著な働きをした人、もしくは②戦場で大功を立てて討ち死にした人の近親者、どちらかです。軍事が重要で、政治ではない。例外は本多正純(宇都宮15万5千石)くらいでしょうか。ただし彼は元和8年に改易(かいえき)され、終わりを全うしていません。 さて、では利勝の栄達をどう理解するか。一つは時代が変わったのだ、とする正攻法。いくさがない世の中になったので、行政力が高く評価されるようになった。利勝の出世はその表れだとする。同僚の酒井忠世も政治力を評価されて上野・前橋で12万石ですので、この見方が有力なのは間違いない。 でも、利勝の場合は、もう一つ、違う解釈があります。それがよく知られる「利勝は家康の落胤(らくいん)だった」説です。彼の血統については、江戸幕府の公式な記録である『徳川実紀』にも書かれています。「火のないところに煙は立たぬ」ともいいますし、さてどうなのでしょう? ぼくは今のところ、これを「アホらしい」と一笑に付すだけのロジックを持ち合わせていません。かつて古河は下総国に属していた。下総はいまはおおよそ千葉県になるが、古河は茨城県古河市である。よみは「ふるかわ」ではなく「こが」。渡良瀬川の下流に接していたが、この川は直(じか)に東京湾に注ぐ河川であったので、江戸と北関東を結ぶ町として栄えた。もう少し歴史を遡(さかのぼ)ってみると、湿地に守られる天然の要害であったため、室町時代後期には鎌倉公方がこの地に移り、「古河公方」と呼ばれた。そうした経緯から、古河は北関東有数の町だったのである。

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