《昭和42年5月の初高座でまったくウケず、客席に爆笑が起きたのはハプニングで黒猫が舞台を横切ったときだけ。劇場のお茶子(ちゃこ)さん(舞台のお手伝いをする女性…
《昭和42年5月の初高座でまったくウケず、客席に爆笑が起きたのはハプニングで黒猫が舞台を横切ったときだけ。劇場のお茶子(ちゃこ)さん(舞台のお手伝いをする女性)から「初舞台で猫が出た人は出世する」という偽の言い伝えで励まされるも自信喪失の日々。ところが…》
毎日放送の番組(※42年10月のスタート当初の番組名は『歌え!MBSヤングタウン』=通称・ヤンタン)の担当は名プロデューサーとして知られた渡邊一雄さん。「お笑いの人間がほしい。誰かいないか」と若手の芸人を探していたそうですが、渡邊さんはもともと音楽関係が専門だから、お笑い界には詳しくない。そこで、(小文枝が所属していた)吉本興業の作家さんを通して、入門したばかりの僕にも声が掛かったようですね。「何かしゃべってみて」と言われた僕は、学生時代からやっていたような漫談や司会で話していたネタを3分ほど披露した。この連載の初回で話したように、当時の僕はまだ古典落語も小咄(こばなし)もロクにできませんので、学生時代の調子で話すしかなかったんです。つまり、(小文枝)師匠からさんざん注意された〝素人(しろうと)口調〟ですなぁ。
すると、渡邊さんから「あんな話まだあるの?」と聞かれて、あれこれ説明したら「来週もこられるかな」って。「師匠にも話を通すから」と言われて、僕は「ヤンタン」にレギュラー出演することが、あっさり決まったんですねぇ。
産経 サンケイ 新聞 ニュース 速報 政治 経済 社会 国際 スポーツ エンタメ
日本 最新ニュース, 日本 見出し
Similar News:他のニュース ソースから収集した、これに似たニュース記事を読むこともできます。
米朝ではなく「小文枝」に入門 出番を終えた着物姿の師匠を「人事部長さんや」と母に紹介 話の肖像画 落語家・桂文枝<9>《関西大学4年のときプロの落語家となる決意をする》
続きを読む »
漫才と演劇に夢中、成績は降下 話の肖像画 落語家・桂文枝<7>《母子が離れ離れに暮らしていたころ、母が病気で入院。病室で聴いた西条凡児(さいじょうぼんじ)(※タレント、漫才師、1914~93年、『素人(しろうと)名人会…
続きを読む »
住み込みで働く母と離れ離れの寂しさ 2人の伯父に影響を受けながら 話の肖像画 落語家・桂文枝<6>《母子は〝おっちゃん(母の長兄、文枝さんには伯父)〟の家に移った。間もなく母は、料理旅館に住み込みで働くことになり、母子は離れ離れの生活となって、寂しさが募…
続きを読む »
水が引くまで病院に1週間、いかだから川に転落も 話の肖像画 落語家・桂文枝<5>《堺の大叔父宅から母と移ったのは大阪市大正区の製材所の一角にある3畳一間だった》
続きを読む »
自身創作のネタが語り継がれる〝古典〟に 話の肖像画 落語家・桂文枝<3>《上方(かみがた)の落語家のうち、〝本業〟で全国的な人気を誇り、独演会でいっぱいのお客さんを集めたのは、古くは桂米朝(べいちょう)、その弟子で〝爆笑落語〟で…
続きを読む »
母1人子1人の少年時代 大叔父の家を出て親類宅を転々とする日々 話の肖像画 落語家・桂文枝<4>《昭和18(1943)年7月16日、堺市で生まれた。銀行員だった父(河村清三(かわむらせいぞう)さん)の顔は知らない。生後約11カ月のときに戦病死したからだ》
続きを読む »