SF小説『Aurora』を読み返し、時間と向き合う方法について考察する。カレンダーや「いまを生きる」ことへの試みの後、著者は「一日一日を生きる」という考え方が、まるで波のように変化する時間を捉え、人生を豊かにする鍵だと気づく。
この夏、ぼくは数年前に記事で取り上げたSF作家キム・スタンリー・ロビンスンの小説『 Aurora (オーロラ)』[未邦訳]を読み返した。生態学的な視点に優れたロビンスンのこの作品は、ざっくり言えば、人間がいかに自然に適応しているかを描いた作品だ。物語はビーチで終わる。そこでは早朝の大きな波のうねりの中を泳ぐ様子がたっぷりと描かれる。波は高くなるにつれて「深い半透明の緑」へと変わっていく。 それまで海で泳いだことのなかった主人公フレイアは、その朝初めて泳ぎ方を学ぶ。うねりの下に潜り込むと「波に引き寄せられる感じ」があり、それが通り過ぎれば水面に戻れることに気づく。また、崩れかけた波に素早く向かって行き、「頂点を突き抜けると波の裏側に落ちる」ことも知った。波に乗ることさえできる。「砕ける波の先頭を滑り、表面を横切ると、波が目の前で盛り上がり、ちょうどいい速さで急な角度がつくので、その斜面を滑り落ちる」ことを覚える。空を飛んでいるような感覚でとても楽しいが、失敗することもある。態勢を整える前に頭上で波が崩れると、海底に押し倒され、砂に叩きつけられる。一度は溺れかけたことさえあった。 フレイアは波の下を、上を、そして沿うように泳ぐ。どの波も同じではなく、手強いときもあれば理想的なときもあるけれど、心地よいリズムでひとつにつながっている。速い波が続くときは急いで対処する必要があるが、そういう瞬間はまれだ。ほとんどの場合、目の前の波を乗り切ってから次の波に立ち向かえばいい。このリズムこそが、ビーチを特別な場所にしている。海のように強力なものが、ある種の予測可能性をもつという事実は、ちょっとした奇跡のように感じられる。 対照的に、日常生活では時間の流れが不規則に感じられることが多い。つらい時期には時間が耐えがたいほど長く感じられる一方、プレッシャーが高まると時間は加速する。ぼくの場合、夏の終わりに時間が駆け足で過ぎていくように感じられる。日が短くなり、年末の休暇シーズンが近づくにつれ、月日の感覚はどんどん曖昧になっていく。 息子のレゴ・ロボットチームのコーチをしているぼくは最近、ミーティングの予定を組むために学校のカレンダーを確認した。どの週にも科学フェアや感謝祭の行事など何かしら特別な日があるため、早めに計画しておく必要があるからだ。 アニー・ディラードは著書『ティンカー・クリークのほとりで』[めるくまーる/絶版]で、太陽が昇り沈む速さを描写している。まるで世界が「ちちんぷいぷい」と唱えるマジシャンによって動かされているかのようだ、と。ぼくたちの足元にある時間は不安定で、波はおさまらず、ただ荒れた海が広がっている。 時間を規則正しく整理する方法はいくつかあり、誰もがそれをよく知っている。ひとつは、カレンダーやリストを使って計画を立て、時間の流れを客観的に把握するやり方だ。つまり、時間を支配するということ。もうひとつは「いまを生きる」こと。あらゆる瞬間に価値を見いだすという考え方だ。 ぼくはカレンダーを好んで使うが、生産性の達人デヴィッド・アレンとは違い、カレンダーを通して彼の言う「水のような心」を感じたことは一度もない。どちらかと言えば、カレンダーアプリは時限爆弾のカウントダウンのように感じられ、開くのをためらうほどだ。 その一方で瞑想なども試したけれど、「いまを生きようとする試み」はどれもぼんやりとしていて不確かで、どこか逃避的に思えた。ぼくはむしろ、外部から与えられる規則的で管理しやすい時間の枠組みのなかで生活が展開するとき、人生が最も楽しいと感じる。 ここ数年の経験から、ぼくは自分にとっての解決策は「一日一日を生きる」ことなのだと気づいた。一部の依存症回復プログラムは、「一日一日(one day at a time)」が標語として掲げられている。これは、生涯にわたって禁酒を続けるという困難な目標を達成するには、日々新たに取り組み続けることが最善だという考え方に基づいている。E・L・ドクトロウが小説家の仕事を語った言葉とも少し重なる。ドクトロウは、小説を書くことを「夜にクルマを運転するようなものだ。ヘッドライトが照らす範囲しか見えないが、それでも走り続ければ目的地に着く」と表現した。 だが、ぼくが言いたいことは少し違う。一日は波のようなものだ、ということだ。それぞれの日には独自の個性がある。波の下に潜ることも、表面を登ることも、波に乗ることもできるし、叩きつけられることもあるが、そのあとにはまた別の日が来て、さらに次の日が来る。ぼくたちは、「一日」をひとつの単位と捉えることで、経験をうまく整理できるのだ。当たり前のように聞こえるかもしれないけれど、実際にはいつも簡単にできるわけじゃない。 一日ずつ取り組むよう自分に言い聞かせること自体は、ある程度までは誰にでもできる。文字どおり「一日ずつ取り組め」と考えることができるし、その考えだけで何かが変わることもある。でも、それは「人生を楽しめ」と自分に言い聞かせているようなものだ。その意図をはっきりさせるためには、より実践的なテクニックがあったほうがやりやすいだろう。 アムステルダム在住の禅僧ポール・ルーマンズは、著書『Time Surfing(タイムサーフィン)』[未邦訳]のなかでいくつかのテクニックを提案している。ルーマンズは、禅僧としては珍しくとても忙しい人物のようだ。同書では、何年も前、アムステルダムのヨーロッパ禅センターを運営しながら、「スイスでサーカスを指揮し、オランダを巡業する若い観客向けのショーに出演していた」ころの自身を振り返っている。 妻とのあいだには幼い子どもたちもいた。忙しさに疲れ果てながらも、コンピューター上のタスクリストを絶えず確認し、更新を続けていた。それでもなお、いつも「遅れること」を恐れていた。彼には、古いタスクを片付けるそばから新しいタスクが次々と落ちてくる「テトリス」のように人生が思えたという。「わたしは禅僧だった」と彼は当時を振り返る。「平穏や静けさはどこにあったのだろう?」 ルーマンズが「タイムサーフィン」と名付けた人生管理術は、彼がタスクリストを手放したことで生まれた。この発想は、多くの 時間管理 マニュアルが提示する一般的なアドバイスとは真逆だ。そうしたマニュアルは、生産性を高めるシステムを構築し、それを継続して運用すれば、自分の意思をうまく管理できると説く。だがルーマンズは、「頭でタスクを管理する」のではなく、直感に頼って臨機応変に次にすべきこと選ぶべきだと言う。彼によれば、タスクの難しさは心身の状態によって大きく変わる。 例えば、レポートを書くとき、丸一日費やしても序文すら書けなかったのに、よく休んだ翌朝にインスピレーションが湧き、一気に進むことがある。喧嘩相手に電話をかける必要があるとしても、落ち込んでいるときと、運動後でアドレナリンが高まっているときとでは、まったく異なる結果になるかもしれない。部屋の片付けも、数日かかることもあれば、やる気があるときは数時間で終わることもある。こうした観点からすれば、特定のタスクを行なう時間をあらかじめ決めることには、ほとんど意味がない。気が向いたときに、やりたいタスクをやればいい。そのほうがずっと効果的にできるのだから。 では、自分がいま何をしたいのか、どうすればわかるのだろうか? 通常の生産性アドバイスであれば、タスクの優先順位を軸に計画を立てるよう促すだろう。だがルーマンズは、外的なシステムによって禅のような静けさと穏やかさの感覚を本質的に生み出すことはできないと主張する。そうした感覚は内側でしか生じない。一方で、外部システムは多くの場合、内面の乱れや疲労の兆候を無視するようぼくたちを促す。ルーマンズが書くように、ぼくたちはタスクに没頭することで「内面のシグナルを無視または抑圧する。もう少しだけ、もう少しで終わる、と自分に言い聞かせる。実際には体が休みを求めて叫んでいるのに」 ルーマンズによれば、何かをやり終えたときや疲れを感じたときには、ただ「ひと息つく」べきであり、次に何をすべきかは、直感が指し示してくれるまで待てばよいのだ。短い散歩に出たり、皿を洗ったり、桃を食べたりすればいい。「距離を置くことで見え方が変わる」とルーマンズは助言する。ひと息つけば、ごく自然に「休んだ後にすべき活動が頭に浮かぶ」という。 気分が乗ることだけをしていたら、気分が乗らないことを永遠にしなくなるのでは──そう疑問に思う人もいるだろう。だがルーマンズは、人間の直感には責任感が含まれていると考える。不快な物事であっても、あるときほんの一瞬だけ、精神的・感情的にそれを受け入れさえすれば、人は積極的にそこへ意識を向けることができる、と彼は主張する。 最近ぼくは、障害をもつ母の健康保険に関する複雑な手続きを役所で行なう必要があることを知った。この手続きのことを考え、それを失敗した場合に起こりうる結果を想像すると、恐ろしくなった。典型的な生産性システムを使っていたなら、「母の保険を処理する」という項目をリストに追加し、平日の午後に数時間を確保して避けられない電話をかけていただろう。代わりにぼくは、ルーマンズの方法にならい、電話している自分を想像する時間をつくってみた。この問題が自分の内側に引き起こす緊張と不安を受け止めたのだ。 すべきであることを認め、距離を縮めてから、それをいったん脇に置き、ほかのことに集中した。数日後、いくつかのメールを書き終えたぼくは椅子から立ち上がり、お茶を淹れ、バッグの整頓をした。すると突然、母の保険問題を片付けるタイミングは「いまだ」とひらめいた。リストは必要なかった(とはいえ、実際のところ“タイムサーファー”もリストをひとつはもつことはできる。ただそれはタスクを命じるシステムではなく、あくまでバックアップや参照として目につかないところに置いておくものだ)。 ルーマンズは「直感に完全にコントロールを委ね、何も忘れないと信じるとき、平穏の感覚が生まれる」と約束する。ぼくは、長めの期限を設けて複数回にわたりタイムサーフィンを試し、実際に成功した。ルーマンズの主張が本当だとわかったのだ。ある種のボーナスと言えるだろうか、毎日の始まりと終わりに、以前よりも自分自身を意識できるようになった。 タスクリストに沿って人間味のない生活を送るのではなく、一日一日を、避けられない要求(重要な会議や長い通勤、不可欠な雑用)と、変化する好みや能力とのあいだで起きる奇妙な衝突として捉えられるようになった。そのため、日々はそれぞれが際立ち、より個性的なものになった。何をしたいかという問いで一日を始め、最後に何をしたいと感じ、何ができたかという問いで終えることができれば、日々を乗り越えるべき波として経験できるようになる。一日一日を自分のものにできるのだ。 ルーマンズのアプローチは、内面に注意を向けることが時間を構成することに役立つのだと示している。でももちろん、一日そのものにも構造がある。だからこそ、『ユリシーズ』、『ダロウェイ夫人』、『フェリスはある朝突然に』といった数多くの小説や映画が、一日の展開をテーマにしているのだ。 日々の構造は、部分的には自然のリズムによって決まる。睡眠と夢、それに続く夜明けと目覚めの意識、覚醒と活動、そして眠気、暗闇、再び訪れる睡眠。そこには陽光、潮汐、天候といった馴染みのパターンともリンクする。そして、交通、労働時間、食事時間といった人間がつくり出したパターンとも結びついている。どれも個人としてのぼくたちよりも大きく、それぞれの日に独自の一貫性とまとまりを与える。こうしたすべてが、ぼくたちが一日を自然な単位として認識することに寄与している。 それでも一日は、もしぼくたちがそこに注意を払うなら、広い意義を帯びうるランダムな出来事で満ちている。『ユリシーズ』では、主人公たちは基本的には自分の仕事をしているだけだけれど、学校にいる子どもたちを観察したり、墓地を歩き回ったり、歌を聴いたり歌ったりする。そのうちのひとりは喫茶店の外に立ち、茶葉が栽培されている遠い土地に思いを馳せる。ワインを飲みながら、そのブドウがどこから来たのかを想像する。若さ、教育、死、芸術、遠い土地、自然界──一日は実に多くの側面を包み込む。 『ティンカー・クリークのほとりで』のなかで、ディラードは目覚めるとシャツに猫の足跡がついていることに気づく。それは血でできた足跡だった。猫は夜中に冒険に出かけ、それを知らせるために彼女が眠っているあいだに戻ってきたに違いない。「わたしたちは目覚める。しかし、本当に目覚めるとすれば、それは謎や死の気配、美や暴力に対してだ」とディラードは書く。日中、彼女はその気配を追って近くの小川を探索する。「わたしは外に出る」と彼女は言う。「何かが見える。さもなければ完全に見逃され、失われてしまうはずの出来事が見える。あるいは、何かがわたしを見る。巨大な力こそが、その清らかな翼でわたしに触れ、わたしは打たれた鐘のように響きわたる」 すばらしい一日ではないか。ぼくの日々がそこまでのレベルに達することはほとんどないけれど、より大きな意味では同じだと言っていい。象徴的なものや実存的な可能性に対して心を開くとき、ぼくたちの日々はより鮮明になりうる。もちろん、それは精神的な話にすぎない。人生は、どのように分割しようとも進んでいく。日々の違いなどなくなってしまえばいいと思う時期もあれば、逆に、深くこだわりたい経験を見つけて、その経験だけを日々から際立たせたいと願うときもある。 だが、日々のリズムにも力がある──ぼくたちをかたちづくる力が。ならば、その力を最大限に活用してもかまわないだろう。アルトゥール・ショーペンハウアーは1851年にこう書いている。「朝は若く、すべてが明るく、新鮮で、簡単に手に入る時間だ。夜は老人のようなもので、わたしたちは無気力になり、おしゃべりになり、愚かになる。どの日も小さな人生である。目覚めて起きることはいつも小さな誕生であり、新鮮な朝はいつも小さな若さであり、休息し眠りにつくことはいつも小さな死を意味する」 それは膨大なエネルギーであり、新しい視点であり、24時間ごとに繰り返しぼくたちに与えられるものだ。それを使わない理由があるだろうか? (Originally published on The New Yorker, translated by Kei Hasegawa/LIBER, edited by Nobuko Igari) ※『WIRED』によるウェルビーイングの関連記事はこちら。 テックエリートが暗闇に籠もる、「ダークネス・リトリート」という名の最新スピリチュアル修行 最も神秘的な性質「時間」を5段階のレベルで解説 | 5 Levels | 忙しさに圧倒されそう? 「いつかやることリスト」をつくるのはどうだろう 未来の可能性を拡張するアイデアとイノベーションのエッセンスを凝縮した、毎年恒例の大好評企画の最新版「THE WIRED WORLD IN 2026」。世界中のクリエイターや実業家、科学者など40名超のビジョナリーが、テクノロジーやビジネス、カルチャーなど全10分野において、2026年を見通す最重要キーワードを掲げた総力特集! 詳細はこちら。.
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