【あれから私は】 避難所となったわが家、陸前高田・正徳寺_あの日、世界が一変した
■「とうとう来た!」 全身が凍り付いた。陸前高田は地震多発地帯で繰り返し大きな津波に襲われてきた。まだ私が幼い頃に起きた「昭和35年チリ地震津波」でも大きな被害を受けている。当時の記憶はない。それでも大人たちは口々に「いつかまた大きな津波が来る」と語り伝えてきた。 だが、その波は人々の想像を超えていた。大人たちの頭の中ではチリ地震津波の記憶が大きくなりすぎて、いつしかそれが基準になっていた。津波が来ても、当時はなかった大きな防潮堤が街を守ってくれるはずだった。 3月11日、テレビに次々映し出されたのは、防潮堤をやすやすと越え、巨大な船を押し流し、家々をなぎ倒していく凄まじい大津波だった。チリ地震津波とは比較にならない。 ■「陸前高田がやられる!」 この勢いで郷里に津波が襲い掛かったら、私の実家である真宗大谷派寺院・正徳寺にも危機が迫るだろう。標高約40メートルにあるとはいえ、決して安心できる高さではない。...
「防潮堤を越えてきたのは真っ黒な津波でした」 漁師の家が集まる海沿いの集落に残っていたのは高齢者が多かった。自治会長の鈴木勇吾さん(当時74歳)は地震が起きると、家家に声をかけてまわった。了達は、高齢者を手助けしながら逃げる人々を誘導した。 リアス式海岸のため、集落の背後にはすぐ小高い山が迫っている。急勾配の細い坂道を登り、少し降りるとそこは正徳寺の境内だった。だが震度6弱の地震では、標高40メートルある正徳寺でもまだ安心はできない。人々はさらに高い公民館へと避難していった。 ■建物が破壊される音、飲み込まれる大地 任務を終えると、了達は家族の無事を確認するため小学校へと自転車を走らせた。地震の発生時刻はちょうど下校時間で、妻子が小学校にいることが予想できた。 一方、正徳寺の坊守である寿子(ながこ)は地震発生と共に火の元を確認。その後は車で3人の子どもたちを急いで迎えに行った。 小学校の下の空き地に車を停め、校庭に集まっている人たちに合流すると、眼下に壁のような津波が来るのが見えた。小学校も高台にあるが、大津波はその1階まで到達したのである。 「津波だ! 逃げろー!」...