甲木千絵「くぼみでも、でっぱりでも」(12) 第41回さきがけ文学賞選奨作

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甲木千絵「くぼみでも、でっぱりでも」(12) 第41回さきがけ文学賞選奨作
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「いえ、先生ではなくて」

男はすとんとひとつ尻もちをついて、それから何か言いながら、慌てて玄関まで這いつくばって転がって、ペットボトルを放り出して、出て行った。廊下に炭酸水がこぼれて泡立ってシュワシュワ音をたてている。ドアが勢いよく開いて閉まる。すぐにドアロックをかけ、廊下を振り向くと、男が落としていった鍵が、炭酸水に濡れていた。「Yes.私、お父さんとずっと昔、行ったことあります、シガラキ。その時にね、このカップ、お父さんと私、作ったよ」お茶からはまた、温かい湯気が立ち上る。それだけで、勝手ながらちょっと後押しされている気がした。お父さんは、てる子に来てほしいと思っている、と思う。口元にえくぼを作って、てる子が小さくうなずいた。そのほっとしたような表情を、ほっとした思いで見た。大人に何か頼むことに、全然慣れていないのじゃないか、だけど、私に頼んでくれたのだと思った。何を考えているかわからない、なんてこと、全然ない。私に対する気持ちを、初めて聞いたと思った。ただ、てる子が一緒に行ってほしいと言える大人、が、私なんかしかいないことに、こんな、私なんかであることに、申し訳ないような気持ちになって、ちょっと胸が痛んだ

信楽は滋賀県の南部の町だが、高原にあるため十月ともなれば、かなり寒いらしい。てる子は学校の制服の上に紺のカーディガンを着込み、さらに大きなストールを巻いている。私も一応は黒のスーツを着て、コートを羽織ってきた。 東海道本線の新快速で滋賀に入り、左手に琵琶湖を見て草津で下車し、草津線に乗り換えた。今日は土曜日だけれど、草津駅は駅前のロータリーの人通りも多く、いかにも便利なベッドタウンという雰囲気が漂っている。しかし、陸橋を渡って草津線の乗り場に来ると、急にあたりの景色が変わった。 広いホームに待っている人はまばらで、到着した短い電車からたくさんの人が降りてきたものの、乗る人は少なかった。この駅が終点で、ここからまた折り返すのだ。草津線は三重県の柘植(つげ)まで行っていて、信楽に行くには途中の貴生川(きぶかわ)駅でさらに乗り換えるらしい。

走り出すと駅と駅の間隔が長くなり、電車は速度を上げる。景色はどんどんのどかな田園地帯となった。のんびりした警笛が長く尾を引いて、一瞬で通過する踏切に、軽トラが一台だけ待っている。周りはひたすら田んぼだ。身体を包む空気が一気に冷たい。一緒に降りた数人の乗客は、到着を待っていた車や駐車してある車にさっさと乗り込んでいなくなり、駅前には、あっという間にてる子と私だけが残された。驚いたことに、見上げるほど大きな狸の焼き物が、ロータリー前にどっかと座っている。

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