戦時中に毒ガス兵器を生産していた旧日本軍の製造所に関する記録が新たに見つかりました。軍に動員されて作業に当たった工員たち…
およそ5万坪の敷地には、7棟の建物などが配置され、皮膚をただれさせる「イペリット」や、窒息性のある「ホスゲン」などの毒ガスを砲弾や爆弾に詰める作業が行われました。防衛省防衛研究所によりますと、「曽根製造所」をめぐっては、毒ガス兵器の生産能力などを示す記録は見つかっているものの、工員たちがどのような作業に従事していたかや、毒ガスの漏えい事故が起きていたことを示す記録は確認されていなかったということです。曽根製造所で働いていた元工員たちは戦後になって毒ガスが原因とみられる後遺症に苦しめられ、1989年にはおよそ300人の元工員たちが「毒ガス傷害者互助会」を結成し、国に補償を求める活動を始めました。 互助会の会長を務めた岡田清さんは当時の取材に、「高齢者になるにしたがって後遺症がかさみ、心臓やぜんそくなどガスが原因ではなかろうかとみられる重症患者がいて、その人たちも入退院を繰り返して、家庭の経済を大きく圧迫している状態だ」と訴えていました。製造所が開設された1937年から8年間、毒ガスを砲弾に詰める作業を行っていた畠山治郎さんは「当時は毒ガスを予防するようなことは考えておらず、せきが出る、のどが痛くなる、目が赤く充血するくらいで、直接苦痛を感じないから、何とも思っていなかった」と証言していました。また、製造所の事務所で働いていたという男性は、毒ガス弾を製造していることを口外してはならないと命令されていたと証言し、「戦時中はもちろん戦後もこういうことは一切お互い言うまいぞということで別れたのです。国際条約に反して作っていたという恥部ですから徹底的に証拠隠滅しています」と語っていました。.
およそ5万坪の敷地には、7棟の建物などが配置され、皮膚をただれさせる「イペリット」や、窒息性のある「ホスゲン」などの毒ガスを砲弾や爆弾に詰める作業が行われました。防衛省防衛研究所によりますと、「曽根製造所」をめぐっては、毒ガス兵器の生産能力などを示す記録は見つかっているものの、工員たちがどのような作業に従事していたかや、毒ガスの漏えい事故が起きていたことを示す記録は確認されていなかったということです。曽根製造所で働いていた元工員たちは戦後になって毒ガスが原因とみられる後遺症に苦しめられ、1989年にはおよそ300人の元工員たちが「毒ガス傷害者互助会」を結成し、国に補償を求める活動を始めました。 互助会の会長を務めた岡田清さんは当時の取材に、「高齢者になるにしたがって後遺症がかさみ、心臓やぜんそくなどガスが原因ではなかろうかとみられる重症患者がいて、その人たちも入退院を繰り返して、家庭の経済を大きく圧迫している状態だ」と訴えていました。製造所が開設された1937年から8年間、毒ガスを砲弾に詰める作業を行っていた畠山治郎さんは「当時は毒ガスを予防するようなことは考えておらず、せきが出る、のどが痛くなる、目が赤く充血するくらいで、直接苦痛を感じないから、何とも思っていなかった」と証言していました。また、製造所の事務所で働いていたという男性は、毒ガス弾を製造していることを口外してはならないと命令されていたと証言し、「戦時中はもちろん戦後もこういうことは一切お互い言うまいぞということで別れたのです。国際条約に反して作っていたという恥部ですから徹底的に証拠隠滅しています」と語っていました。




