【本日のらんまん】万太郎(神木隆之介)が石版印刷所を訪ねました。実際の牧野博士も植物図の印刷については強いこだわりがあり、石版印刷所で修業をした経験もあります。#牧野富太郎 #朝ドラらんまん #神木隆之介 #石版印刷
「はあ、ずっと前から郷里で土佐植物目録を完成しようと志しておりました。それももう大方出来上がりました。これからも分類学を研究し、日本のフローラ(植物相)を明らかにするよう、日本の植物誌を作るまでやってみたいと思います」矢田部教授は土佐植物誌を作ることは大いに勧めているが、「日本植物誌」については、少し留保のようなものが付いた、距離のある物言いにもなっている。当時の牧野は友人にも恵まれた。彼らはれっきとした東大生であったが、それは対等な付き合いだった。互いの下宿を行き来し、植物採集も一緒に出掛けた。当時、東京植物学会という学会組織があった。渡りに船と思ったのだろう。教授は学会の機関誌として、その雑誌を創刊することにして、1887(明治20)年、「植物学雑誌」が刊行された。ただ、これで満足する牧野ではなかった。先の矢田部教授との会話の中にもあったように、国内の植物を網羅し、分類して記す「日本植物誌」の完成が大望だった。そのための植物図や文章を書くこともできた。問題はどうやってそれを印刷するかだった。「植物学雑誌」刊行の翌年、念願だった「日本植物志図篇(ずへん)」第1巻第1集を出版した。 〈私の考えでは図の方が文章よりも早わかりがすると思ったので、図篇の方を先に出版したわけであった。この第一集の出版は、私にとって全く苦心の結晶であった。日本の植物誌をはじめて打(うち)建てた男は、この牧野であると自負している〉(牧野富太郎自叙伝)【2013年1月21日付け、社会部・竹内一】.
「はあ、ずっと前から郷里で土佐植物目録を完成しようと志しておりました。それももう大方出来上がりました。これからも分類学を研究し、日本のフローラ(植物相)を明らかにするよう、日本の植物誌を作るまでやってみたいと思います」矢田部教授は土佐植物誌を作ることは大いに勧めているが、「日本植物誌」については、少し留保のようなものが付いた、距離のある物言いにもなっている。当時の牧野は友人にも恵まれた。彼らはれっきとした東大生であったが、それは対等な付き合いだった。互いの下宿を行き来し、植物採集も一緒に出掛けた。当時、東京植物学会という学会組織があった。渡りに船と思ったのだろう。教授は学会の機関誌として、その雑誌を創刊することにして、1887(明治20)年、「植物学雑誌」が刊行された。ただ、これで満足する牧野ではなかった。先の矢田部教授との会話の中にもあったように、国内の植物を網羅し、分類して記す「日本植物誌」の完成が大望だった。そのための植物図や文章を書くこともできた。問題はどうやってそれを印刷するかだった。「植物学雑誌」刊行の翌年、念願だった「日本植物志図篇(ずへん)」第1巻第1集を出版した。 〈私の考えでは図の方が文章よりも早わかりがすると思ったので、図篇の方を先に出版したわけであった。この第一集の出版は、私にとって全く苦心の結晶であった。日本の植物誌をはじめて打(うち)建てた男は、この牧野であると自負している〉(牧野富太郎自叙伝)【2013年1月21日付け、社会部・竹内一】
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