日経夕刊連載小説・有栖川有栖「折れた岬」（大路浩実 画）のバックナンバーをお読みいただけます。
有栖川有栖「折れた岬」（32）最後の本にサインを書き終えるなり、島本直海は「完了!」と叫んで万歳をした。その瞬間をスマートフォンで撮ってから、安村里那は深く頭を下げる。 「五百冊分のサイン、お疲れさまでした。腕や肩は大丈夫ですか？」 「平気です。でも、『じゃあ、あと百冊』とか言われたら逃げ出します」 島本は右肩をぐるぐる回しながら笑う。二十九歳にしては甘えた声で話すが、それが当人のキャラクターに似合っている。作風と似合っているかどうかは意見が分かれそうだ。 でき上がったサイン本を段ボールに詰めていた須賀翔也が、「ほんと、お疲れさまです」と言ってから、てきぱきとインスタントコーヒーを淹れた。短髪、細身、撫で肩の後輩は、若いだけあって動作に切れがある。
彼に作業の手伝いを頼んだのは、島本の文庫本を担当しているからだ。五日後に発売されるこの新刊も、二年半もすれば彼が文庫化を任される。それまでに異動の辞令が下らなければ、の話だが。 「素晴らしい作品を頂戴したので、がんばって売ります」 両手で握り拳を作ってみせる安村に、「よろしくお願いしますね」と作家は例の甘えた声で応えた。 島本直海の作風は独特で、中盤に残酷シーンがたっぷり入るのに、必ずハッピーエンドで締め括られることから〈安心して怖がれるホラー小説〉と呼ばれる作品で人気を集めている。どんなホラー小説も身の危険がないところで楽しめるのだが、島本流ホラーは恐怖の物語でありながら読み心地がよく、爽やかと評する読者までいた。 「じゃあ、これを運んできます」…
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