日本社会の同調文化と、多文化社会における自己表現の違いについて考察。周囲に合わせる能力が重視される日本と、個人の感覚が尊重される環境での経験を通して、自己の輪郭を取り戻す重要性を説く。多文化環境での体験を通して、自己の価値観や感覚を理解し、表現することの重要性を再認識する。
日本社会には、「何が正解か」を言葉にしなくても共有できる場面が多い。その場にふさわしい振る舞い、求められている言葉、空気の流れなどを読み取り、過不足なく応答できることは日本社会の大きな強みであり、同時に高度な社会的スキルでもある。日本社会ではしばしば、行動の出発点が「自分の考え」よりも先に、「周囲がどう受け取るか」「期待に沿っているか」になる。それは他者への配慮であり成熟した社会性でもあるが、同時に自分の内側の感覚をときに後回しにしてしまうことにもなる。そこでは、日本人同士で通用していた「察して合わせる力」がほとんど機能しなかった。空気を読んでも「正解」に近づかない。無難な言い方を選んでも、相手の反応は予測できない。むしろ、最初に返ってくるのは「あなたはどう思うのか」という問いだった。 私は当時、その状況にかなり混乱した。何を言えばよいのか分からない。どう振る舞えばよいのかも分からない。これまで無意識に頼ってきた「正解の感覚」が役に立たないからだ。相手の表情を読もうとしても、そもそもそれがポジティブなのかネガティブなのかすら分からない。しかし、多文化環境ではそもそも前提が共有されていない。相手が何を当然だと考えているのか分からない。どの振る舞いが無難なのかも分からない。空気を読むより先に、自分の立ち位置を自分で選び取らなければならない。ここでいう好き嫌いとは、自己主張の強さや意見の多さのことではない。何が心地よく、何が苦しいのか。どこまでなら受け入れられて、どこからが無理なのか。そうしたごく個人的で身体感覚に近い感覚を、自分で把握しているかどうかという意味である。それは自由というより、責任に近い感覚だった。誰かの期待に沿えばよいわけでもなく、空気に合わせれば正解になるわけでもない。自分の選択は、自分のものとして引き受けるしかなかった。やがて海外で暮らすようになり、この違いはさらに明確になった。多文化の場では、「間違えないこと」よりも、「自分が何を大切にしているのか」が、行動や態度から伝わっていることのほうが重要になる。相手に合わせることが、必ずしも配慮とは受け取られない。意見の違いは、人間関係の前提として扱われる。むしろディベートを楽しむ文化もある。同調する文化とは対極かもしれない。そういえば、日本で知り合ったオーストラリア人の友達が言っていた。「日本人とは話していても面白くない」と。彼が期待する別の意見が返ってこないのだ。同調だけされても、彼にとっては「会話」ではないのだ。 高度な同調能力を持つ文化と、個人の感覚を前提とする文化。どちらが優れているという話ではない。それぞれが異なる価値を持ち、異なる人間の能力を育てている。ただ少なくとも私にとって、多文化環境は、自分の輪郭を取り戻すための場だった。ことがあるが、そこには本音と建前が存在する。相手の本心を読み取る力が必要とされる場面も多かった。その点では、日本で身につけた「空気を読む感覚」が役に立ったのも事実である。 ただし、私はアラブ社会の内部の人間ではない。アラブ社会には、アラブの人々同士だからこそ共有されている暗黙の規範があり、それは理解できても、私にそのまま当てはまるものではなかった。だからこそ、そこでも私は「自分らしくある」必要があった。日本にいた頃の私は、むしろ不器用な人間だったと思う。なぜ苦しいのか分からないまま、ずっと息苦しさを抱えていた。場に合わせることがうまいわけでもなく、誰にでも受け入れられるような言葉を選ぶこともできなかった。「万人受けする人」がいることが不思議で、そして正直に言えばとても羨ましかった。正解のない環境に置かれたことで、私は初めて、自分の感覚を頼りに判断するしかなくなった。他人に合わせて形を整えるのではなく、自分の内側から選び取る必要が生まれた。 もちろん、過去に身についた癖が完全に消えるわけではない。空気を読もうとする反射的な反応は、今でも残っている。日本社会で育った感覚は、私の一部として刻まれている。それでも今は、以前よりずっと楽に生きている。誰かと自分を比べ続けることも減り、「正解に近づこう」と身構えることも少なくなった。代わりに、「自分はどう感じているか」を基準にすることが増えた。私が今暮らしているケニアの社会を見ていると、少なくとも私の周囲を見る限り、「自分の好き嫌い」や「本音の感情」を率直に表に出すことが、必ずしも歓迎されるわけではない場面が多い。むしろ、多くの人が「自分がどう感じているか」よりも、「他人にどう思われるか」「周囲にどうやったら受け入れられるか」を強く意識して行動している。これは私が体感したというより、ケニア人の友人が説明してくれたことだ。実際、私が見てきた範囲のケニア社会では、自分のネガティブな感情を表に出すことは、どちらかといえば好まれない傾向がある。そのため、多くの人が苦しさを抱えたまま口を閉ざしているようにも見える。 子どもたちもまた、家庭の中で自分の気持ちを率直に言葉にする機会が、必ずしも十分に与えられているとは言いがたいように感じる。どこまで関係があるかわからないが、ケニアでは自殺が 社会問題 となっているそうだ。こうした日常的な感情の抑制や、弱さを言葉にしにくい空気が、結果として人々をより孤立させてしまっている可能性はあるのではないか。実はずいぶん昔、朝日新聞のコラムで「本当の意味で大人になるとは、どれだけ自分を客観的に見られるかだ」という一文を読んだことがある。それを読んだのは、たしか私が 20 代の頃だった。同じ文化や価値観を共有する人たちのあいだで生きることは、確かに安心で慣れ親しんだ居場所でもある。でも、同じ環境にとどまり続けていると、自分を相対化することは意外と難しい。だからこそ、一度コンフォートゾーンの外に出て、自分を客観的に見ざるを得ない環境に身を置くことは、人が成長するうえで欠かせない経験なのではないかと、今は感じている。私が多文化環境の中で学んだ「自分の好き嫌いを分かっていること」は、自由の象徴というより、人が人としてつながるための入口に近いものだった。自分の感覚を知り、それを否定せずに扱えること。もちろん自分の感覚がいつも正しいわけではない。けれど、まず「自分はこう感じる」を知ることが修正や対話の出発点になる。指摘され、思い直す。そんなことを繰り返しつつ、本当の自分を出しながら友情を築いてきた。そんな中で自分を理解することに加えて、本物の友情を育てるという別の宝も得てきたように思う。.
日本社会には、「何が正解か」を言葉にしなくても共有できる場面が多い。その場にふさわしい振る舞い、求められている言葉、空気の流れなどを読み取り、過不足なく応答できることは日本社会の大きな強みであり、同時に高度な社会的スキルでもある。日本社会ではしばしば、行動の出発点が「自分の考え」よりも先に、「周囲がどう受け取るか」「期待に沿っているか」になる。それは他者への配慮であり成熟した社会性でもあるが、同時に自分の内側の感覚をときに後回しにしてしまうことにもなる。そこでは、日本人同士で通用していた「察して合わせる力」がほとんど機能しなかった。空気を読んでも「正解」に近づかない。無難な言い方を選んでも、相手の反応は予測できない。むしろ、最初に返ってくるのは「あなたはどう思うのか」という問いだった。 私は当時、その状況にかなり混乱した。何を言えばよいのか分からない。どう振る舞えばよいのかも分からない。これまで無意識に頼ってきた「正解の感覚」が役に立たないからだ。相手の表情を読もうとしても、そもそもそれがポジティブなのかネガティブなのかすら分からない。しかし、多文化環境ではそもそも前提が共有されていない。相手が何を当然だと考えているのか分からない。どの振る舞いが無難なのかも分からない。空気を読むより先に、自分の立ち位置を自分で選び取らなければならない。ここでいう好き嫌いとは、自己主張の強さや意見の多さのことではない。何が心地よく、何が苦しいのか。どこまでなら受け入れられて、どこからが無理なのか。そうしたごく個人的で身体感覚に近い感覚を、自分で把握しているかどうかという意味である。それは自由というより、責任に近い感覚だった。誰かの期待に沿えばよいわけでもなく、空気に合わせれば正解になるわけでもない。自分の選択は、自分のものとして引き受けるしかなかった。やがて海外で暮らすようになり、この違いはさらに明確になった。多文化の場では、「間違えないこと」よりも、「自分が何を大切にしているのか」が、行動や態度から伝わっていることのほうが重要になる。相手に合わせることが、必ずしも配慮とは受け取られない。意見の違いは、人間関係の前提として扱われる。むしろディベートを楽しむ文化もある。同調する文化とは対極かもしれない。そういえば、日本で知り合ったオーストラリア人の友達が言っていた。「日本人とは話していても面白くない」と。彼が期待する別の意見が返ってこないのだ。同調だけされても、彼にとっては「会話」ではないのだ。 高度な同調能力を持つ文化と、個人の感覚を前提とする文化。どちらが優れているという話ではない。それぞれが異なる価値を持ち、異なる人間の能力を育てている。ただ少なくとも私にとって、多文化環境は、自分の輪郭を取り戻すための場だった。ことがあるが、そこには本音と建前が存在する。相手の本心を読み取る力が必要とされる場面も多かった。その点では、日本で身につけた「空気を読む感覚」が役に立ったのも事実である。 ただし、私はアラブ社会の内部の人間ではない。アラブ社会には、アラブの人々同士だからこそ共有されている暗黙の規範があり、それは理解できても、私にそのまま当てはまるものではなかった。だからこそ、そこでも私は「自分らしくある」必要があった。日本にいた頃の私は、むしろ不器用な人間だったと思う。なぜ苦しいのか分からないまま、ずっと息苦しさを抱えていた。場に合わせることがうまいわけでもなく、誰にでも受け入れられるような言葉を選ぶこともできなかった。「万人受けする人」がいることが不思議で、そして正直に言えばとても羨ましかった。正解のない環境に置かれたことで、私は初めて、自分の感覚を頼りに判断するしかなくなった。他人に合わせて形を整えるのではなく、自分の内側から選び取る必要が生まれた。 もちろん、過去に身についた癖が完全に消えるわけではない。空気を読もうとする反射的な反応は、今でも残っている。日本社会で育った感覚は、私の一部として刻まれている。それでも今は、以前よりずっと楽に生きている。誰かと自分を比べ続けることも減り、「正解に近づこう」と身構えることも少なくなった。代わりに、「自分はどう感じているか」を基準にすることが増えた。私が今暮らしているケニアの社会を見ていると、少なくとも私の周囲を見る限り、「自分の好き嫌い」や「本音の感情」を率直に表に出すことが、必ずしも歓迎されるわけではない場面が多い。むしろ、多くの人が「自分がどう感じているか」よりも、「他人にどう思われるか」「周囲にどうやったら受け入れられるか」を強く意識して行動している。これは私が体感したというより、ケニア人の友人が説明してくれたことだ。実際、私が見てきた範囲のケニア社会では、自分のネガティブな感情を表に出すことは、どちらかといえば好まれない傾向がある。そのため、多くの人が苦しさを抱えたまま口を閉ざしているようにも見える。 子どもたちもまた、家庭の中で自分の気持ちを率直に言葉にする機会が、必ずしも十分に与えられているとは言いがたいように感じる。どこまで関係があるかわからないが、ケニアでは自殺が社会問題となっているそうだ。こうした日常的な感情の抑制や、弱さを言葉にしにくい空気が、結果として人々をより孤立させてしまっている可能性はあるのではないか。実はずいぶん昔、朝日新聞のコラムで「本当の意味で大人になるとは、どれだけ自分を客観的に見られるかだ」という一文を読んだことがある。それを読んだのは、たしか私が 20 代の頃だった。同じ文化や価値観を共有する人たちのあいだで生きることは、確かに安心で慣れ親しんだ居場所でもある。でも、同じ環境にとどまり続けていると、自分を相対化することは意外と難しい。だからこそ、一度コンフォートゾーンの外に出て、自分を客観的に見ざるを得ない環境に身を置くことは、人が成長するうえで欠かせない経験なのではないかと、今は感じている。私が多文化環境の中で学んだ「自分の好き嫌いを分かっていること」は、自由の象徴というより、人が人としてつながるための入口に近いものだった。自分の感覚を知り、それを否定せずに扱えること。もちろん自分の感覚がいつも正しいわけではない。けれど、まず「自分はこう感じる」を知ることが修正や対話の出発点になる。指摘され、思い直す。そんなことを繰り返しつつ、本当の自分を出しながら友情を築いてきた。そんな中で自分を理解することに加えて、本物の友情を育てるという別の宝も得てきたように思う。




