自分が継ぐしかない。下したのが2つの「やめる決断」だった。 →世界を酔わせる後継ぎ。価値を生んだ2つの決断
蔵元の5人きょうだいの長女として育ったが、家業を継ぐ気はまるでなかった。バブル前夜の1984年に東京の大学を卒業し、西武百貨店などで10年ほど文化発信事業に携わったが、程なくしてバブルが崩壊。東京での仕事が激減するなか、家業の酒蔵は日本酒級別制度の見直しもあり存続の危機に陥っていた。
自分が継ぐしかない。覚悟を決めて94年に実家に戻り、下したのが2つの「やめる決断」だった。まず、卸を通すのをやめた。都内で知名度がある酒店に営業をかけ、直取引できる店舗を開拓していった。同時に、吟醸酒や純米酒などの特定名称酒に当てはまらない「普通酒」の生産をやめた。売上高は激減したが、「味で選んでもらえ、売ってもらえる日本酒にならない限り、生き残る道はありませんでした」。 ほかの酒蔵にはない価値を求め、2001年からは広島を代表する酒米の在来品種・八反草の復活栽培に取り組んだ。栽培はとても難しいが八反草にしか出せない味わいがある。冬場は朝5時に蔵に入り、社員とともに酒づくりに専念。2日に1日はこうじの夜番だ。納得できる味の酒ができるまで、15年以上を費やした。
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