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“マインドフルネス”をエゴ肥大のためでなく、社会の変革につなげるために

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“マインドフルネス”をエゴ肥大のためでなく、社会の変革につなげるために
The New Yorkerマインドフルネス / Mindfulnessカルチャー(文化) / Culture

企業によってファストフード化されたマインドフルネスは、他者との結びつきによる社会性を削ぎ落とされてしまった。いま求められる「社会的マインドフルネス」とは何か。

宗教と政治をテーマにわたしが『 The New Yorker 』の連載コラムを始めた目的は、特定の信仰、とりわけスピリチュアルな種類のものを広めることではない。ただ、なぜわたしたち米国人は、いまこれほどまでに道徳観の合意を築くことに苦労しているのか、その理由を探りたかったのだ。 そしてわたしは、ある問いの周りを巡り続けている──今日の細分化されたデジタル社会において、信仰共同体が単に同じ教義を信じる人々の集まりとしてではなく、真に「共同体」として成長する道はあるのだろうか? 例えば、ある牧師がTikTokやInstagramで、フォロワーを増やすとする。若者たちがいつもいる場所に出向いて善き言葉を広めるのだから、教会にとって歓迎すべきことだろう。だが、そのようなかたちの説教は実際の共同体を生み出すのだろうか。それとも、個々人がそれぞれのやり方で信じることを促すだけだろうか? もちろん、国民の宗教観が一致するかどうかに、米国の道徳の未来がかかっているわけではない。それでも、進歩的な理念が現実のものとなるためには、かつて公民権運動の時代にそうであったように、教会との結びつきが必要だとわたしは考える(現在でも信仰団体は人道的な活動に取り組んでいる──わたしがこれまで繰り返し述べてきたように、移民支援やホームレス支援の多くはカトリック系慈善団体が担っている。ただし、そうした活動はたいてい大きく報じられることはない)。 だが、わたしたちはあまりにも孤独になり、あまりにも長い時間をスマホの画面を見つめて過ごしている。そのため、宗教であれ、芸術であれ、娯楽であれ、あらゆるものが結局は「自己最適化」という福音に、否応なく飲み込まれていくように感じられる。 この問題について考えるうちに、わたしはロン・パーサーという人物に行き着いた。彼は仏教の教師であり、サンフランシスコ州立大学の教授、そして『McMindfulness: How Mindfulness Became the New Capitalist Spirituality(マックマインドフルネス:マインドフルネスはいかにして新たな資本主義精神になったのか)』[未邦訳]の著者だ。 かつてマインドフルネスは、ベトナムの僧侶であり活動家でもあったティク・ナット・ハンによって、あらゆる生命が「インタービーイング(相互存在)」であることを理解するための方法として称揚された。ある意味では、この概念が広まったこと自体、宗教的な思想が21世紀の米国社会に根づいた顕著な例だと言える。 だがパーサーの著書は、企業の人事部門や学校、軍隊などで採用されている現代のマインドフルネスに潜む問題点を鋭くかつ説得力をもって批判するものだ。 「マインドフルネスとは、基本的には集中力を鍛える訓練にすぎない」とパーサーは言う。「確かに仏教に由来してはいるが、そこに本来伴っていた倫理の教えも、誤った自己意識への執着を解き放ち、あらゆる他者に対する慈悲を実践するという解放的な目的もすっかり取り払われてしまった。残されたのは、自己啓発の仮面をかぶった自己規律の道具だ。 それは実践者を自由にするどころか、むしろ実践者が抱える問題を引き起こした状況そのものに適応するよう促す。もし本当に革命的な運動であるなら、機能不全のシステムを覆そうとするはずだが、マインドフルネスはむしろその破壊的な論理を強化するだけだ」 こうして、偏執的なほど個人化された教えによって、マインドフルネスもまた自己最適化のための儀式へと変わってしまった。その教えに従えば、他者から距離を置くことで人々の苦しみに無関心でいられるし、瞑想によってひとりよがりな虚栄心を育て、「個人的成長」を悟りと取り違えることさえできる。 パーサーの批判はふたつの層で展開される。まず、ファストフード化した現代の「マックマインドフルネス」を、企業による意図的な取り組みの結果だと考える。労働者のストレス水準を管理し、職場の外で起きていることに関心を向けないよう従業員を訓練するためのものだというのだ。 そしてこの都合のよい取り込みは、「幸福研究」などの疑わしい社会科学によって後押しされてきた。そうした研究は、マインドフルネス専門家を自称する人々に権威を与え、その“専門家”たちは管理職タイプの人間を相手に、「隣人を穏やかに無視する方法」を教えるメディア帝国を築き上げたのだ。 これらに対してパーサーが提唱するのが、「社会的マインドフルネス」だ。この考え方を取り入れることで、人々は自分たちがいかに細分化され、互いから疎外されてしまったのかが見えるようになる、と彼は考えている。わたしたちはどこで道を誤ったのか、そしていまからでも正しい方向へ進むことは可能なのか。わたしは彼にその点について話を聞いた。 *以下の対話は、長さと明瞭さのために編集してある。 ──いまのマインドフルネスは、本来の倫理的な教えも、偽りの自己への執着から解き放つという目的も失ってしまった、とあなたは書いていますね。どうして、もともとはカウンターカルチャー的で深い哲学性をもっていた思想が、入社時に配られるパンフレットに書かれているようなものになってしまったのでしょうか? ロン・パーサー:仏教の伝統は、別の場所に伝わるたびに、常にその土地の文化に合わせて変容してきました。中国の禅はインド仏教とは大きく異なります。瞑想が西洋に伝わると、それは心理学化され、科学化され、道具化され、やがて商品化されました──もっとも、それが本格的に起きたのは2000年以降のことです。 当初はジョン・カバット=ジンによって、病院の臨床現場での治療法として限定的に導入されました。大きな転換点となったのは、科学界がマインドフルネスに関わり始めたことです。14年の『TIME』の特集号──恍惚とした表情を浮かべた金髪の美女が表紙を飾ったあの号──は、マインドフルネス革命が本格的に主流化した瞬間を象徴しています。 ──現在、マインドフルネスはどのような用途で使われているのでしょうか? 初めは病院の臨床現場でストレス軽減療法として導入され、その時点では慢性痛、不安、ストレスに対する正当な治療法でした。その後、心理療法士たちがセラピーにも取り入れるようになりました。ところが14年以降、企業──とりわけシリコンバレーの企業が関心を示し始めました。なかでも象徴的だったのはグーグルです。そして企業向けのマインドフルネス研修が一気に広まりました。 現在ではAI企業がこの流れを受け継ぎ、サム・アルトマンもマインドフルネスを実践しています。こうしたプログラムは、人事部が提供したり、コンサルタントが企業に売り込んだりしています。 わたしの本が出版された後にはアマゾンも加わりました。会社の倉庫の中に設置された棺桶のような小さなブースに入り、マインドフルネスの短い動画を見て、2分ほど実践し、また倉庫の作業に戻る──そういう仕組みです。 ──企業はなぜこれほどマインドフルネスに関心を寄せているのでしょう? これは一種の「心理政治」です。心理政治という言葉は、哲学者ビョンチョル・ハンが提唱しました。新自由主義的資本主義は、人間の精神そのものを生産力として利用しようとしています。 人々は過労やストレスに苦しんでいますが、企業にとっては、構造的問題──雇用不安や長時間労働といったストレスの原因──を解消するよりも、その負担を個々の従業員に押し付けてしまうほうがはるかに簡単です。環境に対する不適応反応としてストレスを「病気」として扱ってしまうほうが手っ取り早いのです。 企業にとっての利点は、従業員のストレスが軽減されれば欠勤が減り、燃え尽きも減り、不満も減るので、結果として生産性を最大化できるという点にあります。 ──医療専門家が関わったことも、とても大きかったようにと思います。最終的にマインドフルネスに関心をもつことになる管理職層にとって、この思想に正当性を与える役割を果たしたのではないでしょうか。 医療や心理の専門職は、新自由主義の規律の一部として機能してしまっています。人々はその規律を自分の内側に取り込み、それはいわば「想像力を奪う装置」として働きます。つまり、問題も解決策もすべて自分の頭の中にあるのだと考えることで、社会の構造そのものを変える可能性から目をそらしてしまうのです。 新自由主義は人々を細分化し、わたしたちに「自分という人的資本」を管理することを求めます。そこには連帯も、集団的な力も、他者とともに行動するという感覚もありません。問題はすべて個人の問題として病理化され、わたしたちはその解決策を買わされることになります。 例えば、「スマホにマインドフルネスアプリをインストールすれば、3分であなたは回復します」という具合です。Headspace(ヘッドスペース)やCalm(カーム)といった企業は、いまや数十億ドル規模にまで成長しています。 ──何が削ぎ落されてしまったのでしょうか。マインドフルネスは実際に効果があり恩恵をもたらす、と言う人もいるでしょう。何が問題なのでしょうか? その質問は何度も受けてきました。わたしは、マインドフルネスに治療的価値がまったくないと言っているわけではありません。人が目の前の苦痛に対処する必要があるのは当然です。問題なのは、マインドフルネスが唯一の解決策として提示されるとき、苦痛の真の原因を見つめることの代替になってしまう点です。 わたしはよく、こんな比喩を使います。足を骨折したら痛み止めを飲まなければいけませんね。でも、骨をきちんと固定しなければ、痛みは和らいだとしても根本的な問題は解決しません。しかも、痛み止めで感覚が麻痺したまま骨が折れた状態で歩き続ければ、かえってケガを悪化させてしまうかもしれません。 これがまさに、職場のマインドフルネスプログラムで起きていることです。人は自分を麻痺させ、耐えがたい環境のなかでも機能し続けられるようにさせてしまうのです。しかも、その枠組み全体が自己中心的です──すべてが、自分の反応をどう管理するか、自分がどう気分よくなるか、自分がどれだけ逆境に強くなれるかという話に帰着するのですから。 環境そのものが変わるべきではないのか、あるいは同じ環境で苦しんでいる他者に対して自分には何らかの責任があるのではないか、といった問いは決して立ち上がりません。 ──わたしは20代前半のころ、こうした思想についてずいぶん長く考えていました。植林の仕事をしながら、ゲイリー・スナイダーを読んだりもしました。指導してくれた先生は──たしか僧侶として修行したことのある人だったと思いますが──大切なのは、そこに皆がいるのだと理解することだ、と言っていました。スピリチュアルを理由に虚栄に陥ってはいけない、と。いったい何が失われてしまったのでしょうか? 「スピリチュアル化された中立性の罠」という言葉があります。わたしはこれは有用な表現だと思っています。スピリチュアル・バイパス[編註:スピリチュアルな信念を利用して心理的問題から逃避すること]に似ていますが、こちらはむしろ政治的な逃避です。マインドフルネスが、世界の痛みに向き合うためではなく、それを回避するための手段になってしまうのです。 その核心で削ぎ落とされているものは──これは観想の伝統におけるもっとも深い核心ですが──非二元的な智慧の実現、つまり一体性の体験です。本来、これこそが観想実践に取り組む理由でした。ところがいまや、それは他者や自然、宇宙との一体性を悟るための精神的な道ではなく、単なる道具的なテクニックへと変えられてしまっています。 生産性を高めたり、少し気分をよくしたりするための、いわば緩和剤として使われているのです。その結果、本来の悟りの意味からは遠ざかってしまいました。 エゴは削ぎ落とされるどころか、むしろ餌を与えられ肥大しています。本来こうした実践が核心として求めている、自己の利益を超えて生きようとする強いコミットメントが取り除かれてしまっているのです。 伝統的な仏教は、社会運動そのものを目的としているわけではありません。目指すのは個人の覚醒です。しかし、その個人的覚醒の結果として、人は自分を世界から切り離された存在だとは感じなくなり、世界に関与するようになります。まさにこの点が失われているのです。 現代版のマインドフルネスは、むしろ分離を強めています。あなたは世界から切り離された自己であり、その分離した経験をより上手に管理しなければならない、と教えているのです。 ──1960年代から70年代の禅ムーブにも似たような力学がありました。深い自己陶酔です。ほかの誰も世の中に存在しないかのように振る舞い、自分を完成させようとする。ゲイリー・スナイダーのことは尊敬していますが、世界が崩壊しているときに、ひとり森の中で斧を見つめているという姿には、どこか違和感を覚えます。どうすれば、人々に「大事なのは他者の存在を理解することなのだ」と納得してもらえるのでしょうか? まさにそれが課題です。マインドフルネスは八正道のうちのひとつの要素にすぎず、ほかの要素も同じように重要なのです。 仏教の瞑想には、大きく分けてサマタとヴィパッサナーというふたつの種類があります。サマタは心を鎮める瞑想です。深い探究を行なうため、つまりヴィパッサナーによって物事をありのままに見るためには、まず安定した心が必要です。心があらゆる刺激に反応して跳ね回っている状態では、物事の本質を見ることはできません。 瞑想と聞くと、座って呼吸を落ち着かせる行為を思い浮かべる人が多いでしょう。しかし、それはあくまで準備段階にすぎません。マインドフルネスは、その準備段階だけを取り出し、それをあたかも最終目的であるかのようにもち上げてしまったのです。 マックマインドフルネスは、問題はあなた自身の頭の中にあり、解決策は思考の反芻を管理することだと教えます。そこでは、自己も世界も本当にいま見えているとおりのものなのか、という問いそのものが抜け落ちています。どうすれば自分のストレスを減らし、もっと生産的になれるか、というレベルにとどまっているのです。その問いの構造そのものに、すでに自己中心性が組み込まれていると言えるでしょう。 そして、ほかにも多くのものが抜け落ちています。倫理的な側面もそのひとつです。 ──倫理的な側面とは? 基本的には、ほかの宗教的伝統と大きく違うわけではありません。大まかに言えば、いかなるかたちであれ他者に害を与えてはならない、ということです。怒りや欲望など、さまざまな心の働きを見極め、それらを調整していくための精緻な体系が存在します。 精神的成長の初期段階では自己調整が行なわれますが、その際にはまず心を鎮めることが重要になります。常に何かに反応している状態では、明晰な視点に到達することはできません。だからこそ心を鎮めることが非常に重要であり、この点ではマインドフルネスとも重なります。ただし、それはあくまで別の目的へと至るための手段にすぎないのです。 ──著書のなかで「真に革命的な運動であれば、機能不全のシステムを覆そうとするはずだが、マインドフルネスはむしろその破壊的な論理を強化するだけだ」と書いておられますね。その「革命的運動」とは、どのようなものなのでしょうか? まず必要なのは、意識の革命だと考えています。最近わたしは、マインドフルネスを現代版の社会的ストア主義としても捉えるようになりました。つまり、変えられないものを受け入れ、耐え忍ぶ態度です。わたしが言う「革命性」とは、認識の仕方そのものにおける革命です。世界と呼ばれるものとの関わり方を変え、参加型の認識を学ぶことなのです。 それは静寂主義でもなければ、怒りに突き動かされたアクティビズムでもありません。マーティン・ルーサー・キング・ジュニアのような精神的革命家が体現していたのは、別のものでした──明晰な視点や他者との親密さから生まれる行動です。イエス・キリストが中心に据えたのも愛でした。そこにあったのは対立ではなく、親密さです。しかしイエスは不正に対しては行動を起こし、神殿で商売をしていた商人たちの台を倒すことさえしました。 正義や慈悲は、外側から押し付けられる道徳的義務ではありません。意識における革命的な変化──つまり、相互存在や根源的な相互依存を認識することから育まれるものです。それを本当に理解すれば、人は違った行動をとるようになります。そうすべきだからではなく、そうせずにはいられなくなるからです。 歴史的に見れば、教会は社会運動のためのインフラ、つまり共同体的な基盤を提供してきました。しかしやがて宗教は政治的な力を失います。公共の領域から切り離され、純粋に私的なものへと縮小されていきました。 そこに、マインドフルネスがぴたりとはまり込んだのです。「スピリチュアルではあるが宗教ではない」という立場をとり、社会制度への信頼を失った人々のための対処法となりました。しかしそれは、人を孤立させる対処法であって、何かを築き上げるものでは決してありません。 ──インターネットはどのような影響を与えたのでしょうか。いまやマインドフルネスの多くはスマートフォン上にあります。仏教に限った話ではありません。TikTokでは数十万人のフォロワーをもつ牧師が2分間の説教をし、AIアバターの導師まで登場しています。かつて信仰や哲学が進歩的な運動に与えていた影響力が失われた理由のひとつは、あまりに多くのものがデジタル化してしまったことにあるのではないかと、わたしは感じています。わたしたちがともに存在しているという感覚や、集団的責任という考えは、すべてが画面を通して媒介されることで失われてしまうのではないでしょうか。 そのとおりです。プラットフォームというもの自体が、そうした方向へと人々を導いてしまうのです。そこには収益化の機会がいくらでもありますからね。スマホ依存にならないよう教えるアプリを開くために、人々がスマホを使っているというのは皮肉な話です。こうして分断と孤立がさらに強められていきます。 瞑想は、自分の精神状態を管理するためだけのツールになってしまいます。慈悲という言葉がよく使われていますが、実際にはそれは自己への慈悲、つまり「自分を責めないで」という意味に矮小化されています。そこに連帯はありません。本来の慈悲や智慧は、他者との関係から切り離されたまま浮遊する記号となり、深遠さを装うだけのものになってしまうのです。 ──どうすれば人々は、より社会に関与するかたちへと立ち戻ることができるのでしょうか? 活動家的な怒りと、瞑想的な超然とのあいだにある二項対立をどう乗り越えるか──いま、わたしたちはそこで行き詰まっています。 あえて少し非現実的なことを言いましょう。必要なのは、失われた伝統にもう一度目を向け、そのもっとも深い非二元の智慧に本気で親しみ直すことです。その伝統は、ユダヤ教でも、キリスト教でも、仏教でも、イスラム教でも、あるいは世俗的なものであってもかまいません。 わたしが言いたいのは、現実を捉えるための新しい視点が必要だということです。わたしたちは共通の人間性を強調する視点をもっているでしょうか? 共通の居場所に共に参加しているという感覚はあるでしょうか? エコロジーという言葉は、もともと「家」を意味します。いまわたしたちが置かれているのは、精神的な空洞です。人間はただの断片として捉えられ、皆が自分は脆く孤立した島なのだという危機感を抱きながら、自分の領域を守ろうとしている。これこそが、現代西洋の新自由主義文化の悲哀です。そしてマインドフルネスは、それをむしろ強化してしまっているのです。 わたしが呼びかけているのは、合理性だけに依存した分離的な認識ではない、別の知のあり方です。それは、身体で感じるものであり、心を中心に据えたものです。“存在”に触れる、親密な感覚を伴う知のあり方です。ここでいう“存在”には、あらゆる存在が含まれています。 これは、ただ考えるだけで到達できるものではありません。生きて経験しなければならないのです。しかし、その知に自らの根を下ろし、他者とともに発見し育んでいくことで、初めてその知をもって生きることができるのです。 (Originally published on The New Yorker , translated by Risa Nagao/LIBER with permission from The New Yorker , edited by Nobuko Igari) ※『WIRED』によるThe Big Interviewの関連記事はこちら。 瞑想は脳をより柔軟な状態へと導く:研究結果 忙しい人のための瞑想入門──数分でもできる、集中力と睡眠の質を高める習慣 CIAも注目、“意識の深層への旅”をうたう瞑想法とは何なのか 未来の可能性を拡張するアイデアとイノベーションのエッセンスを凝縮した、毎年恒例の大好評企画の最新版「THE WIRED WORLD IN 2026」。世界中のクリエイターや実業家、科学者など40名超のビジョナリーが、テクノロジーやビジネス、カルチャーなど全10分野において、2026年を見通す最重要キーワードを掲げた総力特集! 詳細はこちら。.

宗教と政治をテーマにわたしが『The New Yorker』の連載コラムを始めた目的は、特定の信仰、とりわけスピリチュアルな種類のものを広めることではない。ただ、なぜわたしたち米国人は、いまこれほどまでに道徳観の合意を築くことに苦労しているのか、その理由を探りたかったのだ。 そしてわたしは、ある問いの周りを巡り続けている──今日の細分化されたデジタル社会において、信仰共同体が単に同じ教義を信じる人々の集まりとしてではなく、真に「共同体」として成長する道はあるのだろうか? 例えば、ある牧師がTikTokやInstagramで、フォロワーを増やすとする。若者たちがいつもいる場所に出向いて善き言葉を広めるのだから、教会にとって歓迎すべきことだろう。だが、そのようなかたちの説教は実際の共同体を生み出すのだろうか。それとも、個々人がそれぞれのやり方で信じることを促すだけだろうか? もちろん、国民の宗教観が一致するかどうかに、米国の道徳の未来がかかっているわけではない。それでも、進歩的な理念が現実のものとなるためには、かつて公民権運動の時代にそうであったように、教会との結びつきが必要だとわたしは考える(現在でも信仰団体は人道的な活動に取り組んでいる──わたしがこれまで繰り返し述べてきたように、移民支援やホームレス支援の多くはカトリック系慈善団体が担っている。ただし、そうした活動はたいてい大きく報じられることはない)。 だが、わたしたちはあまりにも孤独になり、あまりにも長い時間をスマホの画面を見つめて過ごしている。そのため、宗教であれ、芸術であれ、娯楽であれ、あらゆるものが結局は「自己最適化」という福音に、否応なく飲み込まれていくように感じられる。 この問題について考えるうちに、わたしはロン・パーサーという人物に行き着いた。彼は仏教の教師であり、サンフランシスコ州立大学の教授、そして『McMindfulness: How Mindfulness Became the New Capitalist Spirituality(マックマインドフルネス:マインドフルネスはいかにして新たな資本主義精神になったのか)』[未邦訳]の著者だ。 かつてマインドフルネスは、ベトナムの僧侶であり活動家でもあったティク・ナット・ハンによって、あらゆる生命が「インタービーイング(相互存在)」であることを理解するための方法として称揚された。ある意味では、この概念が広まったこと自体、宗教的な思想が21世紀の米国社会に根づいた顕著な例だと言える。 だがパーサーの著書は、企業の人事部門や学校、軍隊などで採用されている現代のマインドフルネスに潜む問題点を鋭くかつ説得力をもって批判するものだ。 「マインドフルネスとは、基本的には集中力を鍛える訓練にすぎない」とパーサーは言う。「確かに仏教に由来してはいるが、そこに本来伴っていた倫理の教えも、誤った自己意識への執着を解き放ち、あらゆる他者に対する慈悲を実践するという解放的な目的もすっかり取り払われてしまった。残されたのは、自己啓発の仮面をかぶった自己規律の道具だ。 それは実践者を自由にするどころか、むしろ実践者が抱える問題を引き起こした状況そのものに適応するよう促す。もし本当に革命的な運動であるなら、機能不全のシステムを覆そうとするはずだが、マインドフルネスはむしろその破壊的な論理を強化するだけだ」 こうして、偏執的なほど個人化された教えによって、マインドフルネスもまた自己最適化のための儀式へと変わってしまった。その教えに従えば、他者から距離を置くことで人々の苦しみに無関心でいられるし、瞑想によってひとりよがりな虚栄心を育て、「個人的成長」を悟りと取り違えることさえできる。 パーサーの批判はふたつの層で展開される。まず、ファストフード化した現代の「マックマインドフルネス」を、企業による意図的な取り組みの結果だと考える。労働者のストレス水準を管理し、職場の外で起きていることに関心を向けないよう従業員を訓練するためのものだというのだ。 そしてこの都合のよい取り込みは、「幸福研究」などの疑わしい社会科学によって後押しされてきた。そうした研究は、マインドフルネス専門家を自称する人々に権威を与え、その“専門家”たちは管理職タイプの人間を相手に、「隣人を穏やかに無視する方法」を教えるメディア帝国を築き上げたのだ。 これらに対してパーサーが提唱するのが、「社会的マインドフルネス」だ。この考え方を取り入れることで、人々は自分たちがいかに細分化され、互いから疎外されてしまったのかが見えるようになる、と彼は考えている。わたしたちはどこで道を誤ったのか、そしていまからでも正しい方向へ進むことは可能なのか。わたしは彼にその点について話を聞いた。 *以下の対話は、長さと明瞭さのために編集してある。 ──いまのマインドフルネスは、本来の倫理的な教えも、偽りの自己への執着から解き放つという目的も失ってしまった、とあなたは書いていますね。どうして、もともとはカウンターカルチャー的で深い哲学性をもっていた思想が、入社時に配られるパンフレットに書かれているようなものになってしまったのでしょうか? ロン・パーサー:仏教の伝統は、別の場所に伝わるたびに、常にその土地の文化に合わせて変容してきました。中国の禅はインド仏教とは大きく異なります。瞑想が西洋に伝わると、それは心理学化され、科学化され、道具化され、やがて商品化されました──もっとも、それが本格的に起きたのは2000年以降のことです。 当初はジョン・カバット=ジンによって、病院の臨床現場での治療法として限定的に導入されました。大きな転換点となったのは、科学界がマインドフルネスに関わり始めたことです。14年の『TIME』の特集号──恍惚とした表情を浮かべた金髪の美女が表紙を飾ったあの号──は、マインドフルネス革命が本格的に主流化した瞬間を象徴しています。 ──現在、マインドフルネスはどのような用途で使われているのでしょうか? 初めは病院の臨床現場でストレス軽減療法として導入され、その時点では慢性痛、不安、ストレスに対する正当な治療法でした。その後、心理療法士たちがセラピーにも取り入れるようになりました。ところが14年以降、企業──とりわけシリコンバレーの企業が関心を示し始めました。なかでも象徴的だったのはグーグルです。そして企業向けのマインドフルネス研修が一気に広まりました。 現在ではAI企業がこの流れを受け継ぎ、サム・アルトマンもマインドフルネスを実践しています。こうしたプログラムは、人事部が提供したり、コンサルタントが企業に売り込んだりしています。 わたしの本が出版された後にはアマゾンも加わりました。会社の倉庫の中に設置された棺桶のような小さなブースに入り、マインドフルネスの短い動画を見て、2分ほど実践し、また倉庫の作業に戻る──そういう仕組みです。 ──企業はなぜこれほどマインドフルネスに関心を寄せているのでしょう? これは一種の「心理政治」です。心理政治という言葉は、哲学者ビョンチョル・ハンが提唱しました。新自由主義的資本主義は、人間の精神そのものを生産力として利用しようとしています。 人々は過労やストレスに苦しんでいますが、企業にとっては、構造的問題──雇用不安や長時間労働といったストレスの原因──を解消するよりも、その負担を個々の従業員に押し付けてしまうほうがはるかに簡単です。環境に対する不適応反応としてストレスを「病気」として扱ってしまうほうが手っ取り早いのです。 企業にとっての利点は、従業員のストレスが軽減されれば欠勤が減り、燃え尽きも減り、不満も減るので、結果として生産性を最大化できるという点にあります。 ──医療専門家が関わったことも、とても大きかったようにと思います。最終的にマインドフルネスに関心をもつことになる管理職層にとって、この思想に正当性を与える役割を果たしたのではないでしょうか。 医療や心理の専門職は、新自由主義の規律の一部として機能してしまっています。人々はその規律を自分の内側に取り込み、それはいわば「想像力を奪う装置」として働きます。つまり、問題も解決策もすべて自分の頭の中にあるのだと考えることで、社会の構造そのものを変える可能性から目をそらしてしまうのです。 新自由主義は人々を細分化し、わたしたちに「自分という人的資本」を管理することを求めます。そこには連帯も、集団的な力も、他者とともに行動するという感覚もありません。問題はすべて個人の問題として病理化され、わたしたちはその解決策を買わされることになります。 例えば、「スマホにマインドフルネスアプリをインストールすれば、3分であなたは回復します」という具合です。Headspace(ヘッドスペース)やCalm(カーム)といった企業は、いまや数十億ドル規模にまで成長しています。 ──何が削ぎ落されてしまったのでしょうか。マインドフルネスは実際に効果があり恩恵をもたらす、と言う人もいるでしょう。何が問題なのでしょうか? その質問は何度も受けてきました。わたしは、マインドフルネスに治療的価値がまったくないと言っているわけではありません。人が目の前の苦痛に対処する必要があるのは当然です。問題なのは、マインドフルネスが唯一の解決策として提示されるとき、苦痛の真の原因を見つめることの代替になってしまう点です。 わたしはよく、こんな比喩を使います。足を骨折したら痛み止めを飲まなければいけませんね。でも、骨をきちんと固定しなければ、痛みは和らいだとしても根本的な問題は解決しません。しかも、痛み止めで感覚が麻痺したまま骨が折れた状態で歩き続ければ、かえってケガを悪化させてしまうかもしれません。 これがまさに、職場のマインドフルネスプログラムで起きていることです。人は自分を麻痺させ、耐えがたい環境のなかでも機能し続けられるようにさせてしまうのです。しかも、その枠組み全体が自己中心的です──すべてが、自分の反応をどう管理するか、自分がどう気分よくなるか、自分がどれだけ逆境に強くなれるかという話に帰着するのですから。 環境そのものが変わるべきではないのか、あるいは同じ環境で苦しんでいる他者に対して自分には何らかの責任があるのではないか、といった問いは決して立ち上がりません。 ──わたしは20代前半のころ、こうした思想についてずいぶん長く考えていました。植林の仕事をしながら、ゲイリー・スナイダーを読んだりもしました。指導してくれた先生は──たしか僧侶として修行したことのある人だったと思いますが──大切なのは、そこに皆がいるのだと理解することだ、と言っていました。スピリチュアルを理由に虚栄に陥ってはいけない、と。いったい何が失われてしまったのでしょうか? 「スピリチュアル化された中立性の罠」という言葉があります。わたしはこれは有用な表現だと思っています。スピリチュアル・バイパス[編註:スピリチュアルな信念を利用して心理的問題から逃避すること]に似ていますが、こちらはむしろ政治的な逃避です。マインドフルネスが、世界の痛みに向き合うためではなく、それを回避するための手段になってしまうのです。 その核心で削ぎ落とされているものは──これは観想の伝統におけるもっとも深い核心ですが──非二元的な智慧の実現、つまり一体性の体験です。本来、これこそが観想実践に取り組む理由でした。ところがいまや、それは他者や自然、宇宙との一体性を悟るための精神的な道ではなく、単なる道具的なテクニックへと変えられてしまっています。 生産性を高めたり、少し気分をよくしたりするための、いわば緩和剤として使われているのです。その結果、本来の悟りの意味からは遠ざかってしまいました。 エゴは削ぎ落とされるどころか、むしろ餌を与えられ肥大しています。本来こうした実践が核心として求めている、自己の利益を超えて生きようとする強いコミットメントが取り除かれてしまっているのです。 伝統的な仏教は、社会運動そのものを目的としているわけではありません。目指すのは個人の覚醒です。しかし、その個人的覚醒の結果として、人は自分を世界から切り離された存在だとは感じなくなり、世界に関与するようになります。まさにこの点が失われているのです。 現代版のマインドフルネスは、むしろ分離を強めています。あなたは世界から切り離された自己であり、その分離した経験をより上手に管理しなければならない、と教えているのです。 ──1960年代から70年代の禅ムーブにも似たような力学がありました。深い自己陶酔です。ほかの誰も世の中に存在しないかのように振る舞い、自分を完成させようとする。ゲイリー・スナイダーのことは尊敬していますが、世界が崩壊しているときに、ひとり森の中で斧を見つめているという姿には、どこか違和感を覚えます。どうすれば、人々に「大事なのは他者の存在を理解することなのだ」と納得してもらえるのでしょうか? まさにそれが課題です。マインドフルネスは八正道のうちのひとつの要素にすぎず、ほかの要素も同じように重要なのです。 仏教の瞑想には、大きく分けてサマタとヴィパッサナーというふたつの種類があります。サマタは心を鎮める瞑想です。深い探究を行なうため、つまりヴィパッサナーによって物事をありのままに見るためには、まず安定した心が必要です。心があらゆる刺激に反応して跳ね回っている状態では、物事の本質を見ることはできません。 瞑想と聞くと、座って呼吸を落ち着かせる行為を思い浮かべる人が多いでしょう。しかし、それはあくまで準備段階にすぎません。マインドフルネスは、その準備段階だけを取り出し、それをあたかも最終目的であるかのようにもち上げてしまったのです。 マックマインドフルネスは、問題はあなた自身の頭の中にあり、解決策は思考の反芻を管理することだと教えます。そこでは、自己も世界も本当にいま見えているとおりのものなのか、という問いそのものが抜け落ちています。どうすれば自分のストレスを減らし、もっと生産的になれるか、というレベルにとどまっているのです。その問いの構造そのものに、すでに自己中心性が組み込まれていると言えるでしょう。 そして、ほかにも多くのものが抜け落ちています。倫理的な側面もそのひとつです。 ──倫理的な側面とは? 基本的には、ほかの宗教的伝統と大きく違うわけではありません。大まかに言えば、いかなるかたちであれ他者に害を与えてはならない、ということです。怒りや欲望など、さまざまな心の働きを見極め、それらを調整していくための精緻な体系が存在します。 精神的成長の初期段階では自己調整が行なわれますが、その際にはまず心を鎮めることが重要になります。常に何かに反応している状態では、明晰な視点に到達することはできません。だからこそ心を鎮めることが非常に重要であり、この点ではマインドフルネスとも重なります。ただし、それはあくまで別の目的へと至るための手段にすぎないのです。 ──著書のなかで「真に革命的な運動であれば、機能不全のシステムを覆そうとするはずだが、マインドフルネスはむしろその破壊的な論理を強化するだけだ」と書いておられますね。その「革命的運動」とは、どのようなものなのでしょうか? まず必要なのは、意識の革命だと考えています。最近わたしは、マインドフルネスを現代版の社会的ストア主義としても捉えるようになりました。つまり、変えられないものを受け入れ、耐え忍ぶ態度です。わたしが言う「革命性」とは、認識の仕方そのものにおける革命です。世界と呼ばれるものとの関わり方を変え、参加型の認識を学ぶことなのです。 それは静寂主義でもなければ、怒りに突き動かされたアクティビズムでもありません。マーティン・ルーサー・キング・ジュニアのような精神的革命家が体現していたのは、別のものでした──明晰な視点や他者との親密さから生まれる行動です。イエス・キリストが中心に据えたのも愛でした。そこにあったのは対立ではなく、親密さです。しかしイエスは不正に対しては行動を起こし、神殿で商売をしていた商人たちの台を倒すことさえしました。 正義や慈悲は、外側から押し付けられる道徳的義務ではありません。意識における革命的な変化──つまり、相互存在や根源的な相互依存を認識することから育まれるものです。それを本当に理解すれば、人は違った行動をとるようになります。そうすべきだからではなく、そうせずにはいられなくなるからです。 歴史的に見れば、教会は社会運動のためのインフラ、つまり共同体的な基盤を提供してきました。しかしやがて宗教は政治的な力を失います。公共の領域から切り離され、純粋に私的なものへと縮小されていきました。 そこに、マインドフルネスがぴたりとはまり込んだのです。「スピリチュアルではあるが宗教ではない」という立場をとり、社会制度への信頼を失った人々のための対処法となりました。しかしそれは、人を孤立させる対処法であって、何かを築き上げるものでは決してありません。 ──インターネットはどのような影響を与えたのでしょうか。いまやマインドフルネスの多くはスマートフォン上にあります。仏教に限った話ではありません。TikTokでは数十万人のフォロワーをもつ牧師が2分間の説教をし、AIアバターの導師まで登場しています。かつて信仰や哲学が進歩的な運動に与えていた影響力が失われた理由のひとつは、あまりに多くのものがデジタル化してしまったことにあるのではないかと、わたしは感じています。わたしたちがともに存在しているという感覚や、集団的責任という考えは、すべてが画面を通して媒介されることで失われてしまうのではないでしょうか。 そのとおりです。プラットフォームというもの自体が、そうした方向へと人々を導いてしまうのです。そこには収益化の機会がいくらでもありますからね。スマホ依存にならないよう教えるアプリを開くために、人々がスマホを使っているというのは皮肉な話です。こうして分断と孤立がさらに強められていきます。 瞑想は、自分の精神状態を管理するためだけのツールになってしまいます。慈悲という言葉がよく使われていますが、実際にはそれは自己への慈悲、つまり「自分を責めないで」という意味に矮小化されています。そこに連帯はありません。本来の慈悲や智慧は、他者との関係から切り離されたまま浮遊する記号となり、深遠さを装うだけのものになってしまうのです。 ──どうすれば人々は、より社会に関与するかたちへと立ち戻ることができるのでしょうか? 活動家的な怒りと、瞑想的な超然とのあいだにある二項対立をどう乗り越えるか──いま、わたしたちはそこで行き詰まっています。 あえて少し非現実的なことを言いましょう。必要なのは、失われた伝統にもう一度目を向け、そのもっとも深い非二元の智慧に本気で親しみ直すことです。その伝統は、ユダヤ教でも、キリスト教でも、仏教でも、イスラム教でも、あるいは世俗的なものであってもかまいません。 わたしが言いたいのは、現実を捉えるための新しい視点が必要だということです。わたしたちは共通の人間性を強調する視点をもっているでしょうか? 共通の居場所に共に参加しているという感覚はあるでしょうか? エコロジーという言葉は、もともと「家」を意味します。いまわたしたちが置かれているのは、精神的な空洞です。人間はただの断片として捉えられ、皆が自分は脆く孤立した島なのだという危機感を抱きながら、自分の領域を守ろうとしている。これこそが、現代西洋の新自由主義文化の悲哀です。そしてマインドフルネスは、それをむしろ強化してしまっているのです。 わたしが呼びかけているのは、合理性だけに依存した分離的な認識ではない、別の知のあり方です。それは、身体で感じるものであり、心を中心に据えたものです。“存在”に触れる、親密な感覚を伴う知のあり方です。ここでいう“存在”には、あらゆる存在が含まれています。 これは、ただ考えるだけで到達できるものではありません。生きて経験しなければならないのです。しかし、その知に自らの根を下ろし、他者とともに発見し育んでいくことで、初めてその知をもって生きることができるのです。 (Originally published on The New Yorker, translated by Risa Nagao/LIBER with permission from The New Yorker, edited by Nobuko Igari) ※『WIRED』によるThe Big Interviewの関連記事はこちら。 瞑想は脳をより柔軟な状態へと導く:研究結果 忙しい人のための瞑想入門──数分でもできる、集中力と睡眠の質を高める習慣 CIAも注目、“意識の深層への旅”をうたう瞑想法とは何なのか 未来の可能性を拡張するアイデアとイノベーションのエッセンスを凝縮した、毎年恒例の大好評企画の最新版「THE WIRED WORLD IN 2026」。世界中のクリエイターや実業家、科学者など40名超のビジョナリーが、テクノロジーやビジネス、カルチャーなど全10分野において、2026年を見通す最重要キーワードを掲げた総力特集! 詳細はこちら。

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