ITの傑作商品を次々と開発して世界を変えたスティーブ・ジョブズ。しばしば京都を訪れ、すしやそばといった⽇本⾷も好んでいた。そのジョブズが、ひそかに熱中して集めていたもう一つの⽇本⽂化とは。
この絵は、橋⼝五葉(はしぐち・ごよう)という“新版画”の作家が1920(⼤正9)年に制作した⽊版画「髪梳ける⼥」(かみすけるおんな)。当時の関係者は、ジョブズが会社に持ち込んだものを利⽤したと話している。ジョブズが禅や和⾷などの⽇本⽂化に傾倒していたことは知られているが、“新版画”に熱中していたことは、ほとんど知られていない。私は、ジョブズがなぜ⽇本の新版画を採⽤したのか、以前から不思議に思っていた。そうしたジョブズの「隠れた⼀⾯」を知るキーパーソンが東京にいた。1983(昭和58)年3⽉、東京 銀座の⽬抜き通りにあった⽼舗の画廊を、よれよれのTシャツにジーンズ姿の3⼈の若者が訪れた。その1⼈が、当時、アップル・コンピュータの会⻑を務めていたジョブズだった。松岡さんに名刺をさし出したジョブズはいきなり、「これから新版画を集めたいので、いろいろと教えてほしい」とあいさつした。当時は印刷代がまだ⾼い時代で、松岡さんは、⼿渡された多⾊刷りの名刺を⾒て驚いた。初めて店を訪れたジョブズが購⼊したのは、新版画の作品2点。このうち、桜の背景に富⼠⼭が描かれた作品について、松岡さんは、欧⽶⼈が好みそうな典型的な作品だと感じた。ただ、もう1点の美⼈画は、数が少なく、貴重なもので、⾼額であったにもかかわらず、ジョブズが買ったことが印象に残った。実は、松岡さんは、ジョブズがどんな⼈物か知らなかった。わかったのは、その⽇、⾃宅に帰って、ジョブズを紹介する⼣刊の記事を⾒たときだった。その後、松岡さんとジョブズとのつきあいは20年に及んだ。海外から観光客を誘致するため、当時の鉄道省が作った海外向けのポスターやカレンダーに採⽤されたり、アメリカの展覧会で紹介されたりして、1930年代半ばには、⽇本よりも海外で⼈気があった。ジョブズは⽇本に来ると、⼈が少ない午前中に店に⽴ち寄ることが多かったが、1⽇に2回⽴ち寄ることもあった。娘を連れてきたこともあった。 松岡さんが⽬を⾒張ったのは、新版画についてのジョブズの知識だった。店に⼊ってくると、松岡さんがいる奥の版画コーナーの部屋に⼊ってきて、在庫にある作品を⾒せてもらいながら、パッパッと素早いスピードで、「これは」という作品を購⼊した。それが終わると、新版画の作家の画集を⾒て、作品をチェックしていた。同時に強く印象付けられたのが、ジョブズの審美眼の確かさだった。ジョブズは、新版画の重要な作品をきちんとおさえていた。それは、明らかに、⼀般の⼈とは違っていた。また、ジョブズが注⽂したのは、特に1923(⼤正12)年の関東⼤震災の前に制作された作品が多かった。そうした作品は、多くが焼失していて数が⾮常に少なく、貴重なものとなっていた。ジョブズが購⼊した「塩路おかね路」(しおじおかねみち)について、松岡さんは、「外国⼈がおよそ選ぶことのない渋好みの作品。数が少ないので、値段も⾼かった」と話している。松岡さんによると、ジョブズが購⼊した新版画の作品は、少なくとも41点。最も多かったのは、⾵景画が得意だった川瀬巴⽔の25点で、全体の60%を占める。ただ、松岡さんは、店にあるものを紹介することに徹し、客の好みをあえて聞くという、⽴ちいった接客はしなかった。ジョブズは、当時のソニーの盛⽥昭夫会⻑のことをよく話し、「盛⽥さんにヘリコプターに乗せてもらって、東京を1周した」と笑顔で話していた。また、ソニーが開発したブラウン管の「トリニトロン」が欲しかったと話し、それに関する商談がまとまったときには、店内で⼦どものようにはしゃいでいた。 ⼀⽅、IT分野のフロントランナーになっていたジョブズにとって、松岡さんの店に通った時期は、みずから設⽴したアップル・コンピュータから追放された時期とも重なる。この直前、松岡さんは、ジョブズが「おれは⼀株を残してアップルを去るんだ︕」と厳しい⼝調で話していたのをよく覚えている。 松岡さんは当時のジョブズの⼼境について、「新版画の作品を⾒ることで、⼀時的にでも、厳しいビジネスの世界から逃れて、傷ついた⼼を癒やし、リラックスしたかったという、そのひと⾔に尽きるのではないか。本⼈には、それが、とても⼤事なことだったのではないか」と話している。.
この絵は、橋⼝五葉(はしぐち・ごよう)という“新版画”の作家が1920(⼤正9)年に制作した⽊版画「髪梳ける⼥」(かみすけるおんな)。当時の関係者は、ジョブズが会社に持ち込んだものを利⽤したと話している。ジョブズが禅や和⾷などの⽇本⽂化に傾倒していたことは知られているが、“新版画”に熱中していたことは、ほとんど知られていない。私は、ジョブズがなぜ⽇本の新版画を採⽤したのか、以前から不思議に思っていた。そうしたジョブズの「隠れた⼀⾯」を知るキーパーソンが東京にいた。1983(昭和58)年3⽉、東京 銀座の⽬抜き通りにあった⽼舗の画廊を、よれよれのTシャツにジーンズ姿の3⼈の若者が訪れた。その1⼈が、当時、アップル・コンピュータの会⻑を務めていたジョブズだった。松岡さんに名刺をさし出したジョブズはいきなり、「これから新版画を集めたいので、いろいろと教えてほしい」とあいさつした。当時は印刷代がまだ⾼い時代で、松岡さんは、⼿渡された多⾊刷りの名刺を⾒て驚いた。初めて店を訪れたジョブズが購⼊したのは、新版画の作品2点。このうち、桜の背景に富⼠⼭が描かれた作品について、松岡さんは、欧⽶⼈が好みそうな典型的な作品だと感じた。ただ、もう1点の美⼈画は、数が少なく、貴重なもので、⾼額であったにもかかわらず、ジョブズが買ったことが印象に残った。実は、松岡さんは、ジョブズがどんな⼈物か知らなかった。わかったのは、その⽇、⾃宅に帰って、ジョブズを紹介する⼣刊の記事を⾒たときだった。その後、松岡さんとジョブズとのつきあいは20年に及んだ。海外から観光客を誘致するため、当時の鉄道省が作った海外向けのポスターやカレンダーに採⽤されたり、アメリカの展覧会で紹介されたりして、1930年代半ばには、⽇本よりも海外で⼈気があった。ジョブズは⽇本に来ると、⼈が少ない午前中に店に⽴ち寄ることが多かったが、1⽇に2回⽴ち寄ることもあった。娘を連れてきたこともあった。 松岡さんが⽬を⾒張ったのは、新版画についてのジョブズの知識だった。店に⼊ってくると、松岡さんがいる奥の版画コーナーの部屋に⼊ってきて、在庫にある作品を⾒せてもらいながら、パッパッと素早いスピードで、「これは」という作品を購⼊した。それが終わると、新版画の作家の画集を⾒て、作品をチェックしていた。同時に強く印象付けられたのが、ジョブズの審美眼の確かさだった。ジョブズは、新版画の重要な作品をきちんとおさえていた。それは、明らかに、⼀般の⼈とは違っていた。また、ジョブズが注⽂したのは、特に1923(⼤正12)年の関東⼤震災の前に制作された作品が多かった。そうした作品は、多くが焼失していて数が⾮常に少なく、貴重なものとなっていた。ジョブズが購⼊した「塩路おかね路」(しおじおかねみち)について、松岡さんは、「外国⼈がおよそ選ぶことのない渋好みの作品。数が少ないので、値段も⾼かった」と話している。松岡さんによると、ジョブズが購⼊した新版画の作品は、少なくとも41点。最も多かったのは、⾵景画が得意だった川瀬巴⽔の25点で、全体の60%を占める。ただ、松岡さんは、店にあるものを紹介することに徹し、客の好みをあえて聞くという、⽴ちいった接客はしなかった。ジョブズは、当時のソニーの盛⽥昭夫会⻑のことをよく話し、「盛⽥さんにヘリコプターに乗せてもらって、東京を1周した」と笑顔で話していた。また、ソニーが開発したブラウン管の「トリニトロン」が欲しかったと話し、それに関する商談がまとまったときには、店内で⼦どものようにはしゃいでいた。 ⼀⽅、IT分野のフロントランナーになっていたジョブズにとって、松岡さんの店に通った時期は、みずから設⽴したアップル・コンピュータから追放された時期とも重なる。この直前、松岡さんは、ジョブズが「おれは⼀株を残してアップルを去るんだ︕」と厳しい⼝調で話していたのをよく覚えている。 松岡さんは当時のジョブズの⼼境について、「新版画の作品を⾒ることで、⼀時的にでも、厳しいビジネスの世界から逃れて、傷ついた⼼を癒やし、リラックスしたかったという、そのひと⾔に尽きるのではないか。本⼈には、それが、とても⼤事なことだったのではないか」と話している。
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