『ゴッドファーザー』が公開されて以来、何かにつけ華麗な生活を送ってきたフランシス・フォード・コッポラ。 50年間で、コッポラは少なくとも一度は破産申請し、何度もハリウッドから追放されている。それでも華麗なのだ。
師に見てもらっていたようで、ある日、ご機嫌で家に帰ってきたんだ。すっかり幸せな様子でね。占い師に、いつか自分の名前が世間に知れ渡るようになるって言われたからさ。それからみんなでカンノーリを食べた。あとになって兄が笑ってたよ。『そうだな、(コッポラは)よく知られた名前になったけど、それは父さんではなくて、おまえの名前だった!』って」
コッポラは、ホフストラ大学で演劇を学び、カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)の映画学校に進学した。しかし、すぐにハリウッドに失望する。「LAではすぐに、これは自分が仲間に入りたいと夢見ていた演劇集団ではないとわかったよ。すごく序列的でね。スタジオで父親が働いていなければ、中に入ることさえできなかったんだから」。それでも、コッポラはすぐに映画を作る方法を見つけた。ピンク映画の演出を手掛け、伝説的なプロデューサーであり才能の発掘者でもあったロジャー・コーマンのもとで映画を作り、スタジオとの最初の仕事となる2作品を完成させた。をフレッド・アステアとペトゥラ・クラーク主演で映画化した『フィニアンの虹』(1968年)だ。どちらもヒットはしなかった。ハリウッド流のやり方から完全に離れて仕事をすることを夢見るようになったのは、脚本と監督を担当した『雨のなかの女』(1969年)を撮影していた頃だった。「映画を丸々1本あの通りで撮影したんだ。ネブラスカ州オガララで撮影していたときのことだ。オガララの有力者たちは、『もし君らがここに残るなら、我々で掛け合って、映画スタジオみたいなものをつくるよ』と
しかし、『雨のなかの女』の商業的成績はそれまでの作品を上回らず、コッポラは、ハリウッドをハリウッドたらしめているのは、金でも機材でも才能ある仲間でもないとすぐに学んだ。「金はあっても、それ以上のものが必要なんだ。配給は友人同士の繋がりにかかっているから」とコッポラは言う。「古い友人のネットワークから生まれるコネみたいなもんだよ。少しずつわかっていったんだ。金を集め、機材を持ったとしても、それだけではうまくいかないってね。自分で映画を公開することはできない。というのも、映画を封切るには、自分が関わっていないネットワークに関わらなければならないから。どうしようもないだろ?心のままに映画を作れるようになるための決め手は、いつもあと一歩先にあるように思えたね」
1970年までに、コッポラはワーナー・ブラザースに借金を作り、家には幼い子供たちがいて、養っていくための現実的な計画もない状態だった。当時みるみるうちにベストセラーリストを駆け上がっていった小説『ゴッドファーザー』の権利を持っていたパラマウント・ピクチャーズは、映画化に特に高い期待も集まらないなか、多少謙虚になっていたコッポラに監督してみないかと打診した。最初、彼は断った。「私は『ゴッドファーザー』なんてやりたくなかった」。彼には、もっと私的な映画を作りたいという夢があったのだ。心のままに作る映画で、夢中になれることを自ら書き上げた作品──そう、まさに『メガロポリス』のように。しかし、最終的には家族や友人に説得され、『ゴッドファーザー』の監督を引き受けることにした。
その後の出来事は、映画そのものと同じくらいよく知られている。『ゴッドファーザー』の製作は、困難を極めた。プロデューサーのロバート・エヴァンスとスタジオ側は、キャスト(特にアル・パチーノ)を嫌い、ゴードン・ウィリスの暗く濁った映像を嫌い、コッポラ自身についても、仕事の進みが遅く優柔不断という理由で毛嫌いしていた。コッポラに聞けば、スタジオ側が彼の代わりにエリア・カザンを監督にしようと陰謀を企てていたことについて恭しく話してくれるはずだ。さらには、