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ソ連兵の相手に差し出され、戦後”キズもの”と誹謗中傷を受けた...“戦争と性暴力”を勇気と覚悟をもって告白した日本人女性と、その負の史実を刻んだ遺族たち(2019年9月26日)|BIGLOBEニュース

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ソ連兵の相手に差し出され、戦後”キズもの”と誹謗中傷を受けた...“戦争と性暴力”を勇気と覚悟をもって告白した日本人女性と、その負の史実を刻んだ遺族たち(2019年9月26日)|BIGLOBEニュース
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ソ連兵の相手に差し出され、戦後”キズもの”と誹謗中傷を受けた...“戦争と性暴力”を勇気と覚悟をもって告白した日本人女性と、その負の史実を刻んだ遺族たち|BIGLOBEニュース

「黒川開拓団のようなことは二度と繰り返してはいけない。次の世代のみんなに伝えていきたい」。終戦直後の中国・満州でソ連兵の性の相手を強いられた女性たちがいた。その歴史に真正面から向き合い、封印されてきた史実を刻んだ人たちがいまる、二度と戦争を繰り返さないために、後世に伝えるために。1931年の満州事変後、中国東北部を占領し、満州国を建国した日本政府。「100万戸移住計画」を閣議決定、村に補助金を出すなどして積極的に推し進めた。結果、全国各地から800以上の開拓団、およそ27万人が入植した。しかし"開拓"とは名ばかりで、多くは中国人が開墾した土地を安い値段で立ち退かせていた。そして岐阜県・旧黒川村から渡った600人余りが暮らしたのが、満州国の首都・新京とハルビンの間にある陶頼昭だった。小学6年まで現地にいた安江菊美さん(85、当時7)の記憶に焼き付いているのは、当時の緊迫した状況だ。「終戦で国が無くなっちゃったから、守ってくれる人は一人もいませんよ。ましてや関東軍はみな逃げちゃってるから」。 戦況の悪化で、開拓団の働き手の男性は関東軍に根こそぎ召集され、残されたのは女性や子供、老人ばかり。敗戦によって、支配を受けた現地の人たちから襲撃を受け、隣の開拓団は集団自決に追い込まれていた。黒川開拓団でも、ある一家が刃向ったことで殺されたことを機に、一時は集団自決に傾いたという。「自決するなら黒川開拓団で一緒に死ぬからと言うことで、白鉢巻してその人たちが(避難場所に)引き揚げて来られた。そりゃもう異様だよ。今日死ぬか明日死ぬかという時の。その日から着の身着のままで寝た。私たちのお母さんも刀を持って、"小さい子から殺して自分も死ぬから、お前は大きいから自分で死になさい"と」(菊美さん) 黒川開拓団は極限状態の中、生き延びるために警護と食料の提供をソ連将校に依頼。そこで求められた見返りが、女性を差し出すことだった。開拓団の幹部は、兵役に出ている夫に配慮、既婚女性は差し出せないと判断。その代わりに、数えで18歳以上の未婚の女性を差し出すことにしたのだ。岐阜県・ひるがの高原で酪農を営む、佐藤ハルエさん(94)は、自身の体験について2年前から顔と名前を出して語ってきた。「団を守るためにどうか頼む、と。奥さんは頼めん、兵隊に行かれて一人でおって頼めんで、あんたら娘だけでどうか頼む、と。それは忘れません」「頑張って、どうかして日本に帰りたい、と犠牲にもなりました」「黒川が皆で揃って帰って来れた、その元になれたと思えば、どんな恥ずかしいことであっても、もうそれを公表しようと。もう犠牲者がいないでしょう、亡くなっちゃって。私ら、そういうことを喋るのが恥ずかしいとは全く思いません」。 性暴力の被害を初めて公に明かしたのは、3年あまり前に亡くなった安江善子さん(当時89)だった。6年前、満州の体験談を話す講演会での、突然の告白だった。「本当に悲しかったけども、泣きながらそういう将校の相手をしなければいけない。辱めを受けながら、情けない思いをしながら、人生を無駄にしながら」。 遺族会会長の藤井宏之(67)さんは戦後生まれ。このとき初めて、犠牲の事実と女性たちの苦しみを知る。「自分たちが犠牲になって開拓団を救ったのに、タブーにして、誰一人として口にも出さない状況が続いたのが一番つらかったんじゃないかなと思った」。 田中幸子さん(仮名、91)も、ハルエさんの遺志を継ぎ、語ることを決意した。「(ソ連兵に)銃を背負ってやられるんだもの、怖いじゃない。暴発でもしたらと思って。心臓はバクバク。反抗したら殺される、強姦だと思った。暴力よ。殺されたくない。17歳で、これからの人生なのにね」。「当番を決めてあったんですね。今夜はこの人、明日はこの人、と回ってきて。皆さん病気になり、順に亡くなって行きましてね」(ハルエさん)。「知らなかった。"接待"って言ったら、お茶を出してお酒を出してと(思った)」「広い板の間にお布団だけ敷いてあって、鉄砲の持つ所で押されて、3、4人、並んだっけ。布団の間の仕切りはない。皆で下の方で手をつないで、頑張りな頑張りな、我慢しな我慢しなって。そうすると、お母さん、お母さんと泣くしね。用が済んだら、慌ててお尻を出して。病気がうつったり、子どもが出来たりしたら大変だから、医務室に逃げ込むの。洗浄してもらうの」。 女性たちを洗浄したのは、数えで17歳だったことで接待の犠牲にはならなかった、鈴村ひさ子さん(90、当時17)だ。「ホースを子宮まで突っ込んで、軍隊のうがい薬で洗浄するのよ。冷たい水で。零下30度、40度下がるとこだしね。私も本当に泣いて洗浄するしね、洗浄を受ける者も泣くしね。本当の地獄ってこういうものかと」。 「病気になった人はいる。凄かったよ。淋病をもらった人を一回見せてもらったけど、後ろが膿でがばがばになってる、一晩中、痛くて寝られないんだって。その人は死んじゃったけどね。あれだけ酷くなれば死んじゃうよ」(幸子さん)。2か月余り続いた接待で、性病や発疹チフスに感染した女性のうち、4人の現地で亡くなった。女性たちの犠牲によって、黒川開拓団の多くは日本に帰還することができた。ところが戦後、彼女たちを待ち受けていたのは労いどころか、口さがない身内からの「キズもの」「汚れた」といった誹謗中傷。事実は長い間、封印されて来た。 「ここで乳搾りやりましたけどね。大きな借金して」。故郷を離れざるを得なくなったハルエさんは、別の村の男性と結婚。ひるがのの地を一から開墾し、酪農を始めた。「辛いとも思いましたし、病気にもかかりましたが、それでも主人は分かってくれて。主人だって義勇隊で満州体験して、南方から帰って来て。本当にいい主人でした」。ハルエさんの長男、茂喜さん(65)は「いくら母親でも、そういう体験があったことは、子どもとしては嫌だった部分があったと思う。何万人もの人が亡くなったり、集団自決が起こったり。(当時の政治が)日本人を助けていたらまた違った社会になっていたと思う」と話す。接待の事実を初めて明かした善子さんの長男、泉さん(65)も「我々には一言も言わなかったことを表で発表した重要度を感じるんですよね。性暴力は発表するものじゃないと言う思いが、彼女たちを何十年も苦しめたんですよね」。 政治は、誰を守るためにあるのか…。尊厳を踏みにじられた女性たちは、戦後74年たった今も苦しみ続けている。「思い出すと本当に鮮明に、映画を見てるみたいに出てくる。何で私はこの世に生まれてくるのにこんなことがあったんだろうと思い出すと寝れない。泣いたり、胸がどっどっとしたり、今でも、今でもよ」(幸子さん) 隠されてきた犠牲に向き合ったのが、亡き父・三郎さんが黒川開拓団員だった遺族会の現会長、藤井宏之さん(67)だ。これまでも地元の小学校や中学校で、開拓団の体験者の話を聞く授業を進めてきたが、そこでは伝えられてこなかった「性暴力」の史実について、女性たちのもとに何度も足を運び、当時の話を聞き取ってきた。 「本当にハルエさんたちのおかげで僕らは今生きてると思うし。まず話を聞いてあげたり、少しでも気持ちを和らげると言うか、寄り添うと言うか」。しかし、話を聞く中で、自分の父親が、女性たちを接待に差し出す"呼び出し係"を担わされたことを知った。「佐藤ハルエさんから"実はあんたのお父さんが呼び出し係役で、来ると怖かった"という話を聞いて、"うちの親父はそういう役だったのか"と思った」。 家族や遺族にも話を聞いた藤井さんは、彼女たちに寄り添うことは、歴史として残すことだと考え、去年4月、碑文として公に刻むことを遺族会に提案した。「あったことを無かったことのようにしてきたことが、どうしても理解できない。今言ってよいのか分からないけど、黒川開拓団はやってはいけないことをやったと」。 遺族会での議論を振り返り、新田貞夫さん(83)は「反対もありましたね。私はよかったと思います」、両親が開拓団だった藤井拓男さん(69)も「自分たち2世と、先人の人たちとの思いも違うところがあって」と話す。 「(犠牲になった)15人の方の親族を回った。どなたも反対する人はいなかったし、喜んで頂いたというか励みになった。歴史の先生とか、そういう人たちにも表現などを見てもらって」(藤井さん)。そんな藤井さんについて、菊美さんは「宏之さんは責任を感じてるわけ。書き直しては"これでいいか、これでいいか"と。何枚紙を貰ったやら」と振り返る。.

「黒川開拓団のようなことは二度と繰り返してはいけない。次の世代のみんなに伝えていきたい」。終戦直後の中国・満州でソ連兵の性の相手を強いられた女性たちがいた。その歴史に真正面から向き合い、封印されてきた史実を刻んだ人たちがいまる、二度と戦争を繰り返さないために、後世に伝えるために。1931年の満州事変後、中国東北部を占領し、満州国を建国した日本政府。「100万戸移住計画」を閣議決定、村に補助金を出すなどして積極的に推し進めた。結果、全国各地から800以上の開拓団、およそ27万人が入植した。しかし"開拓"とは名ばかりで、多くは中国人が開墾した土地を安い値段で立ち退かせていた。そして岐阜県・旧黒川村から渡った600人余りが暮らしたのが、満州国の首都・新京とハルビンの間にある陶頼昭だった。小学6年まで現地にいた安江菊美さん(85、当時7)の記憶に焼き付いているのは、当時の緊迫した状況だ。「終戦で国が無くなっちゃったから、守ってくれる人は一人もいませんよ。ましてや関東軍はみな逃げちゃってるから」。 戦況の悪化で、開拓団の働き手の男性は関東軍に根こそぎ召集され、残されたのは女性や子供、老人ばかり。敗戦によって、支配を受けた現地の人たちから襲撃を受け、隣の開拓団は集団自決に追い込まれていた。黒川開拓団でも、ある一家が刃向ったことで殺されたことを機に、一時は集団自決に傾いたという。「自決するなら黒川開拓団で一緒に死ぬからと言うことで、白鉢巻してその人たちが(避難場所に)引き揚げて来られた。そりゃもう異様だよ。今日死ぬか明日死ぬかという時の。その日から着の身着のままで寝た。私たちのお母さんも刀を持って、"小さい子から殺して自分も死ぬから、お前は大きいから自分で死になさい"と」(菊美さん) 黒川開拓団は極限状態の中、生き延びるために警護と食料の提供をソ連将校に依頼。そこで求められた見返りが、女性を差し出すことだった。開拓団の幹部は、兵役に出ている夫に配慮、既婚女性は差し出せないと判断。その代わりに、数えで18歳以上の未婚の女性を差し出すことにしたのだ。岐阜県・ひるがの高原で酪農を営む、佐藤ハルエさん(94)は、自身の体験について2年前から顔と名前を出して語ってきた。「団を守るためにどうか頼む、と。奥さんは頼めん、兵隊に行かれて一人でおって頼めんで、あんたら娘だけでどうか頼む、と。それは忘れません」「頑張って、どうかして日本に帰りたい、と犠牲にもなりました」「黒川が皆で揃って帰って来れた、その元になれたと思えば、どんな恥ずかしいことであっても、もうそれを公表しようと。もう犠牲者がいないでしょう、亡くなっちゃって。私ら、そういうことを喋るのが恥ずかしいとは全く思いません」。 性暴力の被害を初めて公に明かしたのは、3年あまり前に亡くなった安江善子さん(当時89)だった。6年前、満州の体験談を話す講演会での、突然の告白だった。「本当に悲しかったけども、泣きながらそういう将校の相手をしなければいけない。辱めを受けながら、情けない思いをしながら、人生を無駄にしながら」。 遺族会会長の藤井宏之(67)さんは戦後生まれ。このとき初めて、犠牲の事実と女性たちの苦しみを知る。「自分たちが犠牲になって開拓団を救ったのに、タブーにして、誰一人として口にも出さない状況が続いたのが一番つらかったんじゃないかなと思った」。 田中幸子さん(仮名、91)も、ハルエさんの遺志を継ぎ、語ることを決意した。「(ソ連兵に)銃を背負ってやられるんだもの、怖いじゃない。暴発でもしたらと思って。心臓はバクバク。反抗したら殺される、強姦だと思った。暴力よ。殺されたくない。17歳で、これからの人生なのにね」。「当番を決めてあったんですね。今夜はこの人、明日はこの人、と回ってきて。皆さん病気になり、順に亡くなって行きましてね」(ハルエさん)。「知らなかった。"接待"って言ったら、お茶を出してお酒を出してと(思った)」「広い板の間にお布団だけ敷いてあって、鉄砲の持つ所で押されて、3、4人、並んだっけ。布団の間の仕切りはない。皆で下の方で手をつないで、頑張りな頑張りな、我慢しな我慢しなって。そうすると、お母さん、お母さんと泣くしね。用が済んだら、慌ててお尻を出して。病気がうつったり、子どもが出来たりしたら大変だから、医務室に逃げ込むの。洗浄してもらうの」。 女性たちを洗浄したのは、数えで17歳だったことで接待の犠牲にはならなかった、鈴村ひさ子さん(90、当時17)だ。「ホースを子宮まで突っ込んで、軍隊のうがい薬で洗浄するのよ。冷たい水で。零下30度、40度下がるとこだしね。私も本当に泣いて洗浄するしね、洗浄を受ける者も泣くしね。本当の地獄ってこういうものかと」。 「病気になった人はいる。凄かったよ。淋病をもらった人を一回見せてもらったけど、後ろが膿でがばがばになってる、一晩中、痛くて寝られないんだって。その人は死んじゃったけどね。あれだけ酷くなれば死んじゃうよ」(幸子さん)。2か月余り続いた接待で、性病や発疹チフスに感染した女性のうち、4人の現地で亡くなった。女性たちの犠牲によって、黒川開拓団の多くは日本に帰還することができた。ところが戦後、彼女たちを待ち受けていたのは労いどころか、口さがない身内からの「キズもの」「汚れた」といった誹謗中傷。事実は長い間、封印されて来た。 「ここで乳搾りやりましたけどね。大きな借金して」。故郷を離れざるを得なくなったハルエさんは、別の村の男性と結婚。ひるがのの地を一から開墾し、酪農を始めた。「辛いとも思いましたし、病気にもかかりましたが、それでも主人は分かってくれて。主人だって義勇隊で満州体験して、南方から帰って来て。本当にいい主人でした」。ハルエさんの長男、茂喜さん(65)は「いくら母親でも、そういう体験があったことは、子どもとしては嫌だった部分があったと思う。何万人もの人が亡くなったり、集団自決が起こったり。(当時の政治が)日本人を助けていたらまた違った社会になっていたと思う」と話す。接待の事実を初めて明かした善子さんの長男、泉さん(65)も「我々には一言も言わなかったことを表で発表した重要度を感じるんですよね。性暴力は発表するものじゃないと言う思いが、彼女たちを何十年も苦しめたんですよね」。 政治は、誰を守るためにあるのか…。尊厳を踏みにじられた女性たちは、戦後74年たった今も苦しみ続けている。「思い出すと本当に鮮明に、映画を見てるみたいに出てくる。何で私はこの世に生まれてくるのにこんなことがあったんだろうと思い出すと寝れない。泣いたり、胸がどっどっとしたり、今でも、今でもよ」(幸子さん) 隠されてきた犠牲に向き合ったのが、亡き父・三郎さんが黒川開拓団員だった遺族会の現会長、藤井宏之さん(67)だ。これまでも地元の小学校や中学校で、開拓団の体験者の話を聞く授業を進めてきたが、そこでは伝えられてこなかった「性暴力」の史実について、女性たちのもとに何度も足を運び、当時の話を聞き取ってきた。 「本当にハルエさんたちのおかげで僕らは今生きてると思うし。まず話を聞いてあげたり、少しでも気持ちを和らげると言うか、寄り添うと言うか」。しかし、話を聞く中で、自分の父親が、女性たちを接待に差し出す"呼び出し係"を担わされたことを知った。「佐藤ハルエさんから"実はあんたのお父さんが呼び出し係役で、来ると怖かった"という話を聞いて、"うちの親父はそういう役だったのか"と思った」。 家族や遺族にも話を聞いた藤井さんは、彼女たちに寄り添うことは、歴史として残すことだと考え、去年4月、碑文として公に刻むことを遺族会に提案した。「あったことを無かったことのようにしてきたことが、どうしても理解できない。今言ってよいのか分からないけど、黒川開拓団はやってはいけないことをやったと」。 遺族会での議論を振り返り、新田貞夫さん(83)は「反対もありましたね。私はよかったと思います」、両親が開拓団だった藤井拓男さん(69)も「自分たち2世と、先人の人たちとの思いも違うところがあって」と話す。 「(犠牲になった)15人の方の親族を回った。どなたも反対する人はいなかったし、喜んで頂いたというか励みになった。歴史の先生とか、そういう人たちにも表現などを見てもらって」(藤井さん)。そんな藤井さんについて、菊美さんは「宏之さんは責任を感じてるわけ。書き直しては"これでいいか、これでいいか"と。何枚紙を貰ったやら」と振り返る。

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