【新聞に喝!】「思わず目にする」記事の楽しみ 美術家・森村泰昌 紙面を開けると私の好悪とは無関係に、等価な重みでさまざまな記事が目に入ってくる。結果、通常であれば見過ごしがちな記事にも思わず目が行き、新しい情報を得るチャンスにつながっていく。
新聞というメディアのどこに面白さを感じるかは人それぞれである。私の場合それは、「思わず目にしてしまう」という点にあるように思う。私には私なりの趣味嗜好(しこう)があり、何を選ぶかはどうしてもそれに左右される。電子メディアだとこの傾向はもっと強まり、自分のお気に入りのみによって構成された情報空間が眼前に広がってゆくことにもなろう。紙媒体としての新聞はそれとは異なる。紙面を開けると私の好悪とは無関係に、等価な重みでさまざまな記事が目に入ってくる。結果、通常であれば見過ごしがちな記事にも思わず目が行き、新しい情報を得るチャンスにつながっていく。)もそうであった。「『鬼滅』と『鬼誅(きちゅう)』の違い」と題し、「鬼滅の刃」の世界観は日本も含む「東北アジアにおける伝統的関係とは違う」と論じていた。加地氏によれば、「本来、鬼は死者のことであって、悪者ではない」。ただ「死後において悪事を働く者が出てくる」。その時は「鬼の世界の人々が、悪鬼を誅する」、すなわち処罰する。これが「鬼誅」だ。ところが「『鬼滅の刃』の原作者は『鬼』を始めから『悪鬼』と見なしているようであり、それには老生、違和感を覚えた」とし
といった具合に、違った見解を私なりに見いだせたのも、加地氏の文章に出会えたおかげなのだった。こうして自分とは異なる意見を知り、しかも反論が可能な場があるというのは健全である。新聞は異なる意見に対していつも開かれた場として機能していてほしい。言論世界が規制されるのは、いかなる事態の中であっても不健全だと思う。